咸陽への入城を果たす
さらに劉邦は秦の最後の防衛拠点である嶢関もまた、張良の策によってだまし討ちにして通過し、ついに咸陽への道が開かれます。
この頃には趙高が、胡亥に替えて傀儡の王にしようとしていた、子嬰の手によって殺害されていました。
趙高を葬った後、秦王に即位した子嬰は、咸陽に迫った劉邦に降伏します。
(皇帝にならなかったのは、既に秦が大陸を支配する実質を失っていたためです。)
秦はかつて諸国を攻め滅ぼしたことで深く恨みを買っていましたので、子嬰を処刑すべきだという意見が諸将から多く出されますが、劉邦は彼を許しています。
こうして降伏した秦兵を皆殺しにした項羽と、秦王を許した劉邦とでは、秦の住民からの好感度において、大きな差がつくことになりました。
秦の住民に支持を受ける
劉邦は咸陽を占拠した後、勝者の権利として、宮殿の財宝や美女たちに手を出そうとしますが、実行すると秦の住民たちから恨みを受けることになり、将来のためにならないと張良や樊噲にいさめられ、これを取りやめています。
劉邦は咸陽から離れると、土地の長老たちを集め、「人を殺せば死刑、盗むものには罰を与え、人を傷つけるものにも罰を与える」という三つの法だけで治めることを宣言しました。
秦は苛烈な刑罰と、役人の気まぐれな裁量によって民を支配していた国でしたので、劉邦の「簡素な法を用いる」という宣言は非常な好感をもって迎えられ、是非とも劉邦に新たな秦の王になってもらいたい、という機運が高まっていきました。
こうして劉邦は関中への一番乗りを果たし、住民たちからの支持も獲得し、覇者となるための下地の形勢に成功します。
これらの劉邦の措置は、張良や蕭何らの智謀に長けた臣下たちが、そうするように助言したのだと思われます。
彼らは項羽との競争になった時点で、秦の地で人気を得ることが将来の天下統一につながると見越しており、劉邦陣営は早くも政治的に巧妙な立ち回りを見せています。
項羽が激怒する
こうして成功を収めた劉邦にとって最大の懸念材料は、鉅鹿で勝利を収め、咸陽に向かってきている項羽の存在でした。
項羽は鉅鹿の戦いで章邯を破る大功を立てており、軍勢の実力も名声も劉邦よりも勝っていましたので、彼が咸陽にやってくれば、劉邦の功績はひっくり返されてしまう可能性が高かったのです。
この時、劉邦に「関中の王のままでいたければ、関所を閉じて項羽を関中に入れなければいいのです」と稚拙な策を進言するものがあり、欲に目がくらんだ劉邦は、これを実行してしまいました。
項羽が函谷関にたどり着くと、そこは劉邦の兵によって封鎖されており、これを知った項羽は激怒します。
また、この時に劉邦の部下の曹無傷が、「劉邦は関中王になり、子嬰を宰相にして、秦の財産を独占するつもりです」と項羽に讒言し、劉邦を陥れようとしました。
項羽は腹心の范増から進言を受け、曹無傷の讒言を理由に劉邦を討ち取ってしまうことにしました。
范増は劉邦のことを警戒しており、生かしておけば、項羽にとっていずれ災いになる存在だと見抜いていたのです。
項羽の軍勢はあっという間に函谷関を攻め落とし、劉邦の軍勢が駐屯する覇上を目指して進軍を開始します。
劉邦は人の助言によく耳を傾ける人物でしたが、このように、目先の欲望によって誤った策を採用してしまうことがしばしばあり、常に冷静な判断ができていたわけではありませんでした。
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