雍歯に地位を与えて諸侯の不満を抑える
こうして劉邦は特に大きな功績をあげた、自分に親しいものたちの処遇を決定していきました。
しかし、そうでない者たちへの恩賞は後回しにしたことで、漢の宮中は不穏な空気に包まれていき、密談をしている者たちの姿が頻繁に目につくようになります。
これに気づいた劉邦が張良に、諸将は何を話しているのかと尋ねると、「彼らは謀反を企んでいるのです」と張良が答えたので、劉邦は驚きました。
その理由を問うと、張良は「恩賞を受けたのは、今のところ陛下と親しい人間だけです。このままでは彼らは自分たちには恩賞が与えられないままとなり、いずれ陛下が恩賞を惜しんで自分たちを誅殺するのではないかと疑っています。それくらいなら、いっそのこと謀反を起こそうか、と密談しているのです」と説明しました。
劉邦が対策を問うと、張良は「陛下が最も憎んでいる臣下に恩賞を与えれば、皆が安心するでしょう」と答えました。
劉邦が最も憎んでいたのは、沛で挙兵した直後に裏切った雍歯でした。
雍歯は魏に仕えた後、漢に敗れると降伏して傘下に加わっていたのですが、目立った武功を立てたために、劉邦は雍歯を放逐することができず、臣下のままにしていました。
劉邦が雍歯を憎んでいたことは広く知られていましたので、雍歯に什方侯という爵位を与えると、雍歯ですら貴族になれたのだから、自分たちは大丈夫だろう、と諸将たちは安心し、密談もすっかりとなくなりました。
こうして張良の知謀によって、再び危険を退けることができましたが、以後の張良は仙人になるための修行を始め、俗世に関わることは少なくなっていきました。
秦と項羽を倒し、劉邦による統一が成った以上、自分の役目は終わったのだと考えていたのかもしれません。
天下を取れた理由を自ら述べる
劉邦は漢の都を長安に定め、やがて臣下たちと天下を制したことを祝する酒宴を開きました。
この席で、劉邦は「わしが天下を勝ち取れた理由を述べてみよ」と臣下たちに話を向けます。
すると「陛下は傲慢で人を侮りますが、項羽は人を慈しみます。しかし、陛下は功績があったものに惜しみなく領地を分け与えました。項羽は賢者を遠ざけ、功績のあるものに恩賞を与えようとしなかったために、人望を得られませんでした。これが項羽が天下を保てなかった理由だと思います」と答える者がありました。
これに対し、劉邦は「貴公らは一を知って二を知らない。わしは張良のように策をめぐらして勝利を千里の外に決することはできない。蕭何のように補給を絶えさせず、民に不満を抱かせずに済ませることもできない。韓信のように鮮やかに戦いに勝利することもできない。しかし、この張良と蕭何と韓信という英傑を使いこなした。項羽は范増ひとりですら満足に使いこなせなかった。これがわしが項羽に勝って天下を勝ち得た理由だ」と述べました。
臣下の答えも劉邦の答えも正しいでしょうが、それに加え、項羽に何度敗れても、矢で撃たれても立ち向かうことをやめず、常に最前線に立ち続け、勝利をあきらめなかった劉邦の不思議な勇敢さもまた、最後に勝利を得るために、大きく影響した要素であったと思われます。
反乱の発生
劉邦が天下を統一して間もなく、燕王の臧荼が反乱を起こしました。
彼は韓信が趙を制した後に降伏していた人物でしたが、劉邦に心から従う気はなかったようです。
劉邦は自ら征伐に赴き、臧荼を捕らえて処刑しました。
そして臧荼に代わり、幼馴染の盧綰を燕王に封じます。
この事態を受け、劉邦は王に封じた韓信・彭越・英布らにも疑いの目を向けるようになっていきます。
彼らは百戦錬磨の将軍であり、優れた作戦・指揮能力を備えていましたので、反乱を起こされて諸侯がこれに同調すると、漢の天下がひっくり返されてしまう危険がありました。
劉邦は自身が述べるとおり、個人としての能力は高くなく、臣下たちの方に、軍事に優れた者が数多くいました。
このため、彼らを放置しておくわけにはいかないのではないか、いつ反乱を起こされるかわからないのではないかと、疑いを強めていきました。
劉邦のような形で天下を取ると、その後でこうした悩みに取りつかれることになるようです。
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