項羽を牽制するも、再び敗れる
劉邦は本拠地である関中に戻ると、そこで蕭何が用意した新しい軍勢を率い、滎陽の救援に向かおうとしました。
しかし参謀の袁生が、正面から項羽と戦っても勝利はおぼつかないので、南に出陣して項羽を牽制し、滎陽から遠ざけた方がよいのでは、と進言し、劉邦はこの策を採用しました。
そして武関を出て宛という街に入ると、思惑通りに項羽をそちらにおびき寄せることができました。
さらに項羽の背後に彭越を出没させ、項羽がそちらの討伐に向かう間に、成皋という街に入って項羽を迎撃します。
しかし項羽との戦いが始まると、またも劉邦は支えきれず、再び退却することになってしまいました。
このように、劉邦は項羽とまともに戦っては勝利できないため、他の軍団を動かして牽制しますが、最終的には直接戦わざるを得なくなって敗れる、ということを繰り返しています。
一方で、劉邦は決して優れた将ではありませんでしたが、最強の将である項羽と戦い、何度敗れても心が折れず、決してあきらめないしぶとさを備えており、これが漢の戦いを底支えする力になっていたのだと言えます。
韓信の軍を取り上げる
劉邦が項羽の本隊と激突し、苦戦を強いられている間に、韓信は目覚ましい功績を上げました。
1年ほどの戦いで、魏・代・趙を攻め落とし、燕も降伏させるなどして、大陸北部の大半を、漢の勢力圏に塗り替えたのです。
そして修武という土地に駐屯し、次の侵攻の準備をしていました。
成皋で敗れた劉邦は、御者の夏侯嬰だけを供にして、この修武にまで落ち延びてきます。
韓信はこの時に陣中で眠っていましたが、劉邦はその寝込みを襲って軍を取り上げ、一部の兵のみで斉を攻略するようにと命じました。
韓信はこの劉邦の措置に対し、苦情のひとつも言っていい立場でしたが、言われたとおり、減少した兵力で斉の討伐に向かいます。
こうして劉邦は兵力を回復しましたが、このころから韓信との関係には、微妙な変化が生じていくことになります。
広武山に立てこもる
兵力を得て、幕僚たちも集まってきたことで、劉邦は態勢を立て直しますが、次にどの場所で項羽と対峙するかで、意見がまとまりませんでした。
どこで迎え討とうとも、項羽に勝てる算段は立てられなかったからです。
この時に劉邦が、いっそのこと広武山に立てこもったらどうか、と意見を述べました。
広武山は食料を備蓄している拠点であり、城塞ではありませんでした。
しかしこれを聞いた張良は、それは名案かもしれません、と劉邦に応じました。
滎陽では食料の輸送を項羽に妨害されて落城しましたが、食料庫そのものを城塞化して立てこもれば、輸送の心配はなくなるからです。
この劉邦の一世一代の名案によって、やがて漢に勝機が発生することになります。
項羽の兵站を攻撃する
広武山での戦いが始まった頃、劉邦は彭越の他に、幼馴染の盧綰や、従兄弟の劉賈を別働隊として楚に送り込み、食料補給の妨害作戦を強化しました。
これにより、自軍は食料を豊富に抱えつつ、項羽軍が食糧不足に陥るように仕向けたのです。
項羽は度重なる後方攪乱に怒りを発し、包囲した広武山から離れ、自ら彭越らの討伐に向かいます。
彭越らはすぐに追い散らされますが、一方で劉邦軍は、項羽から広武山の留守を任された曹咎という武将を挑発し、攻めかかってくるように仕向けました。
曹咎は項羽から決して出撃しないようにと戒められていましたが、これを破って劉邦軍に攻撃し、反撃を受けて大敗を喫しました。
しかし、項羽が戻ってきて広武山に挑むと、今度は劉邦軍は決してこれに応じず、陣を固く守り続けました。
今度は弱点となる甬道の存在がなかったため、さしもの項羽も、容易にこれを攻め落とすことはできませんでした。
【次のページに続く▼】