袁紹は後漢の末期において、黄河の北方に勢力を築いた人物です。
名門の出身で、若い頃から高官の地位につき、動乱が発生してからは反董卓軍の中心人物となりました。
その後は北方の四州を制し、諸侯の中で最大級の勢力を得ることに成功します。
しかし疑り深い性格だったので、有能な人材を活用できず、官渡の戦いで曹操に敗れ去りました。
この文章では、そんな袁紹について書いています。
【袁紹の肖像】
汝南に生まれる
袁紹は字を本初といい、汝南郡汝陽県の出身でした。
生年は不明となっています。
祖父の祖父である袁安は、後漢で司徒を務めましたが、その後、袁安から四代続いて三公の位についたため、天下の人々に対して大きな影響力を持つようになります。
(三公は「三つの大臣」の位を指し、司徒はその内の一つです)
袁紹はやはり三公になった袁逢の庶子でしたが、家を出て叔父・袁成の後を継ぎました。
史料によっては袁成の実子だったようにも書かれており、出自がはっきりしないところがあります。
曹操と交際し、何進の属官となる
袁紹は威厳のある風貌をしていましたが、身分が低い相手にも丁重な態度を取ったため、多くの士人に慕われるようになりました。
そして若き日の曹操とも付き合いを持っています。
袁紹は二十歳の時に濮陽の県長に取り立てられました。
やがて大将軍・何進の掾(属官)となり、ついで侍御史(監察官)になります。
そして中軍校尉に昇進し、司隷校尉(首都の行政長官)に就任するなど、名門の出身者らしく、順調に出世を重ねていきました。
宦官の謀殺を計画する
この頃の朝廷では、霊帝に寵愛を受けた宦官たちがはびこり、賄賂次第で能力のない者を高官の地位につけていたため、政治が乱れていました。
そして官人たちは弾圧を受けて追放されていたこともあり、宦官派と反宦官派の対立が深まっていきます。
袁紹は官人たちの勢力を代表する家柄の出身で、宦官を特に敵視していました。
このため、189年に霊帝が崩御すると、何進に次のように進言をします。
「黄門侍郎や中常侍(宦官の位)が権力を握ってから、久しく時が過ぎています。
また、永楽太后(霊帝の母)は中常侍らと結託し、利益をむさぼっています。
将軍はよろしく天下を整頓なさり、国中の人々のために患いを取り除いてください」
何進はこれをもっともだと思い、袁紹と結びつき、宦官の排除を計画するようになりました。
何太后の反対を受け、董卓らを都に召し寄せる
しかしこの計画は現皇帝・少帝弁の母である何太后の反対を受けたため、決行できませんでした。
(何太后は何進の妹です)
宦官は宮中に居住する皇族の世話係で、皇帝や皇后、皇太后らとは近しい立場にありました。
このため、皇族は宦官と親しむ傾向にあり、「宦官の中にも誠実な者はいるのだから」といったことを述べ、排除に反対したのでした。
この結果を受け、何進と袁紹は地方から将軍たちを呼び寄せて軍事力を高め、何太后を圧迫して計画を押し進めようとします。
こうして都に董卓や丁原が召還されましたが、やがてこの措置が大乱を引き起こす原因になってしまいます。
宦官の処断を進言するも、受け入れられず
中常侍や黄門侍郎らはこの情報を耳にすると、ともに何進の元を訪れて陳謝し、「処置をお任せします」と述べました。
袁紹はこの時に、「すぐに処断するべきです」と再三にわたって進言しましたが、何進はこれを許しませんでした。
一方で何進は、袁紹に洛陽にいる武官たちを味方につけ、宦官を取り締まるように命じています。
こういった慎重と言えば慎重な、中途半端と言えば中途半端な対応が、やがて何進の命取りになります。
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