袁紹 曹操と覇を競うも、官渡で敗れた名門の当主

スポンサーリンク

韓馥は耳を貸さず

韓馥は「私はその昔、袁氏の役人だったし、才能も本初(袁紹)に及ばない。

徳のある者を選び、位を譲るのは、古人が尊重した行いだ。

諸君はいったい、何を気に病んでいるのだ」と述べ、耳を貸しませんでした。

なおも従事の趙浮ちょうふ程奐ていかんが、出兵して袁紹を攻撃したいと願い出ましたが、韓馥はこれも許しませんでした。

趙浮らは「袁紹には食糧がないので、攻撃をしかければ10日のうちに撃破できます」と主張しますが、韓馥は聞き入れず、ついに地位を退きました。

そして息子に冀州牧の印綬を持たせ、袁紹に渡させます。

こうして袁紹は策略によって、一戦も交えずに一州を手に入れてしまったのでした。

韓馥は勇気も覇気もなく、乱世の中で勢力を保っていくことはできない人物でしたので、これは妥当な成り行きだったと言えます。

袁紹地図3

沮授が戦略を提言する

こうして大きな基盤を手に入れた袁紹に対し、従事の沮授そじゅが戦略を提案しました。

「将軍は二十歳で出仕されて以来、その名声は天下に響き渡っています。

そして廃立の問題に遭遇された際には、忠義心を奮い起こされ、ただひとりで出奔なさり、董卓に恐れを抱かせました。

黄河を渡って北方に向かわれると、渤海郡が頭を下げて服従いたしました。

そうして一郡の士卒を従えると、冀州の大軍を手に入れ、その威光は河朔かさく(黄河北部)を震わせ、名声は天下に重きをなしていらっしゃいます。

黄巾の賊が世を乱そうとも、黒山の賊が跋扈ばっこしようとも、軍勢を率いて東に向かえば、青州を平定することができます。

引き返して黒山の賊を討伐すれば、首領の張燕ちょうえんを滅ぼすことができます。

そして北方へ向かえば、公孫瓚は必ずや領土を失うでしょう。

蛮族を震え上がらせれば、匈奴きょうど(異民族)は必ず服従するでしょう。

こうして黄河の北を制し、冀州・青州・幽州・へい州の四州を併合し、英雄の才能を結集し、百万の軍勢を擁します。

そして天子の御車を長安よりお迎えし、宗廟を洛陽に再興すれば、天下に号令することができます。

それでも服従しない者は討伐いたしましょう。

このようにして戦えば、いったい誰が我らの敵になるでしょうか?

数年もたたないうちに、難なく功業を打ち立てることができるでしょう」

袁紹はこれを聞くと「これこそが我が心にかなうことだ」と述べ、すぐに上表を奉り、沮授を監軍・奮威ふんい将軍に任命し、大きな権限を預けました。

以後、しばらくは沮授が袁紹軍を主導し、着々と勢力を拡大してくことになります。

董卓の使者を殺害する

董卓は連合軍を解散させようと思い、執金吾しつきんご胡母班こぼはん将作大匠しょうさくだいしょう呉脩ごしゅうに詔書を持たせ、袁紹の元に派遣しました。

そして袁紹を説得して服従させようとしますが、袁紹は河内太守の王匠おうきょうに命じ、彼らを殺害させます。

こうして決裂し、袁紹が関東を手に入れたと聞くと、董卓は太傅の袁隗を初め、袁紹の一族をことごとく処刑しました。

これによって当時の豪傑たちは、みな袁紹のために復讐を誓います。

州郡で蜂起した者たちは、「袁隗のために復讐する」という名分を得ることになりました。

こうして董卓は袁氏一族を処刑したことで、ますます敵を増やすことになります。

この事態から、当時の袁氏の影響力の大きさがうかがえます。

韓馥が袁紹の元を去る

ところで、袁紹は朱漢しゅかんという者を都官従事に任命していましたが、彼は以前、韓馥に冷遇されていたために、恨みを抱いていました。

そして袁紹は韓馥を邪魔に思っているだろうと忖度し、勝手に城郭の兵を動かして韓馥の館を包囲します。

そして刀を抜いて屋根に登ると、韓馥は逃走して望楼に登りましたが、長男が朱漢に捕らえられ、両足を折られてしまいました。

袁紹はこれを知ると、すぐに朱漢を捕らえて処刑しましたが、韓馥はそれでも憂いと恐れが消えなかったので、辞去を願い出ています。

【次のページに続く▼】