袁紹 曹操と覇を競うも、官渡で敗れた名門の当主

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献帝を迎え入れず、曹操に利益を与える

献帝は董卓に擁立された皇帝だったため、袁紹はその即位を喜んでいませんでした。

かつて劉虞を擁立しようとしたことからも、それは明らかです。

しかし献帝が長安を脱出して河東に在住するようになると、袁紹は無視をするわけにもいかなくなり、郭図かくとを使者として派遣しました。

郭図は帰還すると、献帝を迎えて鄴を都にするようにと進言しましたが、袁紹はこれを受け入れませんでした。

袁紹陣営の議論

この時に袁紹の陣営では、献帝を迎えて諸侯に号令を下すべきだという意見と、漢王朝は衰退したのだから、自らが王者になることを目指すのがよく、皇帝を迎える必要はないという、二つの意見が出ていました。

これは『献帝記』という史料に載っているのですが、郭図が皇帝を迎えるのに反対したことになっており、『三国志』の記述とは齟齬そごがあります。

結局のところ、袁紹は自らが王、そして皇帝にならんとする道を選択し、献帝を迎えることはありませんでした。

こうして袁紹が行動を起こさないでいると、やがて曹操が献帝を許に迎えて都とし、河南の地を手中に収め、関中(西方)はみな帰服するようになります。

袁紹の思惑とは異なり、弱ったと言えども、まだ皇帝の威光は残されていたのでした。

袁紹と曹操の関係が悪化する

こうして献帝を迎えたことで、曹操は権力の正当性を獲得し、その勢威が高まっていきました。

この状況を見た袁紹は後悔し、献帝をけん城に移して都にするようにと曹操に要求し、密かに皇帝に接近しようと考えます。

しかし曹操がこれを拒否したため、それまで同盟関係にあった両者の関係が悪化しました。

曹操が地位を袁紹に譲る

やがて袁紹が太尉たいいに、曹操が大将軍に任命されるのですが、それを知った袁紹は「曹操はこれまで命の危険に何度もさらされたが、わしはそのたびに彼を助けてやった。

それなのに、その恩を顧みず、天子を擁してわしに命令をするとは許しがたい」と述べて憤慨しました。

これを聞いた曹操は、大将軍の位を袁紹に譲っています。

袁紹の方が曹操よりも兵力で勝っていたために、曹操はこの時期はまだ、袁紹に遠慮をする必要があったのでした。

また、袁紹は鄴候の爵位も与えられるのですが、こちらは辞退して受けませんでした。

いったん皇帝を迎えないと決めたのに、曹操が利益を得ると態度をひるがえしていますが、このあたりの対応に、袁紹の判断力の乏しさと、優柔不断な性格が浮かび上がっています。

ちなみに太尉は三公の一つですので、袁紹で五代続けて三公を輩出したことになりました。

公孫瓚を攻め滅ぼす

界橋での戦いに敗北して以降、公孫瓚の勢力は弱体化していきましたが、やがて易京えききょうという土地に堅牢な要塞を築き、そこに立てこもるようになりました。

十重二十重に防壁を築き、守りに徹したため、袁紹は攻略するのに長い時間を要する事になります。

最終的に、袁紹は地下道を掘らせて下から防壁や砦を壊し、これによって公孫瓚がこもる中心部へと侵攻しました。

追いつめられた公孫瓚は自害して果て、袁紹はその軍勢を吸収します。

この結果、北方において袁紹の敵はいなくなり、この時点においては、並ぶ者のいない大勢力を築き上げることに成功しました。

袁紹勢力圏

皇帝になることを目指しはじめる

こうして勢力を拡大した袁紹は、朝廷への貢物の献上を怠るようになり、内密に主簿の耿苞に命じ、次のように建白させます。

「漢王朝の赤徳は衰えています。袁氏は黄の血統であるため、天意に従われますように」

中国では権力の移り変わりを、色の変化で表現していました。

赤の次は黄が権力を握るという順番になっていたので、このように建白をしたのです。

黄巾賊が「黄」を掲げたのも、同じ理由からでした。

このようにして、袁紹は自らが皇帝にならんとする野心を現し始めます。

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