董卓が実権を掌握する
袁紹らは段珪らに追っ手を差し向け、急追させました。
すると、追いつめられた段珪らはことごとく河に身を投げたので、皇帝と弟が置き去りになってしまいます。
やがてそこに駆けつけた董卓が、他の者たちを押しのけ、皇帝の身柄を確保しました。
そして何進の弟で、車騎将軍である何苗を謀殺して軍権を奪い取ります。
さらに対抗馬であった丁原に対しては、彼の腹心である呂布を寝返らせて殺害させ、こちらの軍勢をも手に入れました。
こうして董卓は都に集まっていた部隊を全て取り込み、辺境の将軍から、にわかに朝廷の最高権力者の地位を手に入れます。
袁紹らの活動の成果は、すべて董卓がさらってしまったのでした。
董卓から廃位の相談を受け、逃亡する
董卓は実権を掌握すると、何氏の保護下にある少帝弁を廃し、後ろ盾のない弟を皇帝にすげ替えたいと考えるようになります。
その方が、自分が思うままに権力を行使する上で、都合がよかったからでした。
袁紹は相談を持ちかけられましたが、叔父の袁隗が太傅(皇帝の教師)の地位にあったので、表向きは賛成するふりをしながら「これは重大な用件ですので、退出して太傅と相談しなければなりません」と返答します。
すると董卓は「劉氏の血統など、残すほどの価値はない」と、あからさまに皇族を軽視する発言をしました。
つまりは自分が劉氏に取って代わり、皇帝になるつもりだと述べたことになります。
袁紹は何も答えず、刀を横に抱え、会釈してから立ち去りました。
このやり取りによって、董卓は仕えるべき相手ではないと判断したようで、袁紹はそのまま冀州に逃亡しています。
渤海太守となる
この頃の朝廷には侍中の周毖、城門校尉の伍瓊、議郎の何顒といった者たちがいましたが、みな名士であり、董卓から信頼されていました。
その一方で、ひそかに袁紹に味方をしており、袁紹のために董卓に進言をします。
「天子の廃立は重大事であり、普通の人間が関わるべきことではありません。
袁紹にはこの問題に関与するだけの力量がなかったので、恐れを抱いて出奔したのです。
他意があるわけではありません。
今、彼に賞金をつけて厳しく追及すると、その勢いで必ず変事を引き起こすでしょう。
袁氏は四代にわたって恩徳を施しており、食客やもとの部下だった官吏が天下に広く存在しています。
もし袁紹が豪傑に呼びかけて軍勢を集めたなら、英雄たちが決起し、山東(東部)には公(董卓)の支配権が及ばなくなります。
彼を許し、一郡の太守に任命なされば、袁紹は罪を逃れたことを喜び、公をわずらわせることはなくなるでしょう」
董卓はこれをもっともだと思い、袁紹を渤海郡の太守に任じ、邟鄉侯に取り立てています。
しかしこれは袁紹に基盤を与え、董卓打倒の挙兵を許すことにつながりました。
董卓にはこのように、簡単に言いくるめられるところがありました。
挙兵して諸侯と連合する
やがて袁紹は渤海郡で挙兵し、諸侯に呼びかけて董卓を誅伐しようとしました。
これに各地の刺史(州の長官)や太守が応じ、大きな連合軍が形成されます。
袁紹は自ら車騎将軍を称し、同盟を主宰して董卓に戦いを挑みました。
これには曹操や孫堅、そして劉備も参加しており、後に三国を形成する者たちが関わっています。
劉虞を皇帝に立てようとする
この頃の皇帝は、董卓によって擁立された献帝(少帝弁の弟で、元の陳留王)でした。
袁紹は董卓が立てた皇帝には正当性がないと考え、かわって人徳があるとして評判が高い、幽州牧(長官)の劉虞を皇帝に推挙しようとします。
冀州牧の地位にある韓馥とともに、劉虞に使者を派遣して印章を奉りましたが、劉虞はこれを断りました。
こうして袁紹の皇帝擁立の計画は失敗に終わりますが、献帝を軽視する姿勢はその後も一貫しています。
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