袁術 仲の皇帝を名のるも、蜂蜜も得られずに最期を迎える

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袁術えんじゅつは後漢の末期に群雄のひとりとして活動し、やがて皇帝を僭称した人物です。

一時は孫堅や孫策を従えて強勢を誇りましたが、信義に欠け、人望が乏しかったので孤立していきました。

ちゅうという国を建国したものの、諸侯から承認されず、曹操に敗れて勢力を失います。

そして家臣たちにも見捨てられ、貧窮してみじめな最期を迎えることになりました。

この文章では、そんな袁術の生涯を書いてみます。

【袁術の肖像画】

名門に生まれる

袁術は字を公路といい、州の汝南じょなん郡で誕生しました。

生年は確定していませんが、155年頃に生まれたのではないかと言われています。

父は司空しくうという大臣の地位にあった袁逢えんほうでした。

袁氏は後漢において、代々「三公」と呼ばれる最高位の官吏を輩出しており、名門として世に知られています。
(司空も三公のひとつです)

袁術もその一員であり、そのことが袁術を乱世において、群雄の一角に仕立て上げたのだと言えます。

袁紹の従兄弟であり、ライバルだった

袁術の従兄弟には袁紹がいました。

袁紹は名門の出身であるにも関わらず、謙虚な性格だったために人望を得ており、若くして有名になっています。

袁術は袁紹の名声を妬み、ことあるごとに「あいつは出自が低い」といったように、袁紹を貶める発言をしていました。
(おそらくは袁紹の母親の身分が低かったのでしょう。)

このふたりは同世代で、それゆえに次の袁氏一門の宗長の立場を争う関係でした。

このため、袁術は袁紹に激しく対抗心を燃やしており、袁紹をこき下ろしていたのはそれが理由でした。

若い頃は侠者としてふるまっていた

袁術は若い頃は侠者としてふるまい、柄の悪い連中と付き合って放蕩生活を送っています。

一方では俠気おとこぎがあることでも知られていましたが、やがて心を入れ替え、まっとうな生活を送るようになります。

このままでは袁紹に差をつけられるばかりだと自覚し、態度を改めたのでしょう。

そして孝廉こうれんに推挙され、郎中ろうちゅう(皇帝の護衛官)に任命されました。

こうして袁術は名門の一族にふさわしい、官吏として道をたどっていくことになります。

しかし袁術の本質は放蕩者であり、この時は一時的に自分を抑えていただけだったことが、後に発覚してゆきます。

順調に出世するが、やがて董卓が台頭する

袁術は中央と地方の職を歴任し、やがて虎賁こほん中郎将という、近衛兵の指揮官に就任します。

こうして袁術は順調に出世を遂げ、中央権力に近接する立場についたのですが、189年に霊帝が崩御すると、後漢の朝廷は激震に見まわれました。

この頃の朝廷では、宦官かんがんと官吏・軍人たちが政争を行っていました。

そうした状況下で、袁術は大将軍の何進かしんに与し、宦官の追い落としを狙います。

しかし何進が宮中に参内した際に、宦官の意を受けた兵士たちに暗殺されてしまいました。

すると袁術は袁紹とともに宮中に乱入し、宦官たちを皆殺しにして状況を打開しようとします。

しかし宦官の残党が、幼い少帝とその弟をさらい、宮中から逃亡しました。

その一行を、辺境から呼び寄せられていた董卓が抑え、皇帝の身柄を確保します。

そして董卓は謀略によって都に集まっていた軍勢をすべて掌握し、朝廷を乗っ取ってしまったのでした。

結果的に、袁術らの活動は董卓を利したことになります。

後将軍となるも、都を脱出する

やがて董卓は少帝を廃し、その弟を新たな皇帝(献帝)にすげ替えました。

そしてそれまで勢力を持っていた何進の一族を排除し、都で横暴にふるまうようになります。

街の住民を殺戮して財産を略奪したり、ささいな落ち度のあった役人を殺害したり、国家の財産を横領したりと、まさしく暴君として君臨したのでした。

一方、董卓は実力者たちを懐柔しようと、地方の刺史しし(長官)に任命するなどして、地位を与えてもいます。

そうした動きの中で、袁術もこう将軍の地位を得ますが、董卓の側にいては、いつなんどき災いが降りかかってくるか、知れたものではありません。

このため、袁術は都の洛陽を脱出し、けい州の南陽に逃亡したのでした。

南陽を支配する

ちょうど袁術が南陽に逃れた頃、長沙の太守だった孫堅が、南陽太守の張咨ちょうしを殺害しており、このために南陽の統治者が不在となっていました。

袁術はこの好機を活かし、南陽郡を我が物とします。

南陽は後漢全土の中でも特に発展していた地域で、人口は200万を超え、経済的にも豊かな土地でした。

それを手に入れた袁術はただちに放蕩者としての本性を現し、南陽の人々から際限なく税金を取り立て、贅沢ざんまいな暮らしを始めます。

このために南陽の住民は苦しめられますが、袁術はこの後も各地で同じことを繰り返しており、まったく統治者には向かない人物だったのだと言えます。

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