馬日磾を脅迫する
皇帝は太傅の馬日磾を各地の将軍たちの元に巡行させていましたが、彼が袁術の元を訪れた際に、左将軍の叙任式を行う手はずとなっていました。
そして馬日磾がやってくると、袁術は皇帝の使者の証である節を奪い取ってしまいます。
そうした上で、孫策など、自分の部下の名前を記した名簿を馬日磾につきつけ、属官にして地位を与えよと迫りました。
馬日磾はこの横暴な扱いに憤慨し、「あなたの家の先代の方々が、士人を召喚する際にもこのようなやり方をなされたのですか? 属官の地位を脅迫によって手に入れようとするのは、おかしいとは思われないのですか?」と述べて袁術をたしなめます。
そして馬日磾は節を返却して自分を解放するようにと要求しましたが、袁術は彼を抑留して出発させませんでした。
馬日磾は皇帝の使者であるのに、このような仕打ちを受けたことを憂い、やがては怒りの中で死去してしまいます。
このように、袁術のふるまいは礼節を欠いており、自分の欲求を満たすためには、どんなことでもする人物だったのでした。
こうした行いを続けるうちに、袁術からは袁氏の威光がだんだんとはがれおち、周辺勢力からの扱いが悪化していくことになります。
名門の評判は、属する者たちが、評判にふさわしいふるまいをしてこそ維持できるものですが、袁術は横暴な行動を繰り返すことで、それを食い潰していたのだと言えます。
揚州の統一を図るも、孫策の反感を買う
こうして袁術は揚州の一部を占拠したものの、揚州の刺史には新たに劉繇が任命され、曲阿に駐屯して袁術と敵対する関係になりました。
また、廬江の太守・陸康も袁術に従わず、揚州は分裂状態になっていたのだと言えます。
このため、袁術は戦死した孫堅の子・孫策に廬江を制圧するように命じました。
そして「成功の暁には孫策を廬江太守に任命する」と約束したのですが、孫策が廬江を攻略するとこれを反故にし、太守の地位を与えませんでした。
これ以前にも、袁術は孫策を九江太守にすると言っておきながら、実行しなかったことがありました。
これらの経緯によって、孫策は袁術を信用しなくなり、独立を模索するようになっていきます。
このように、袁術は臣下に対しても不実であり、このためにせっかく手元に優れた武将がいたにも関わらず、やがては離反されることになってしまうのでした。
もしも袁術が孫策を使いこなせる器の持ち主であったなら、呉を建国したのは彼だったかもしれません。
徐州を狙い、陳珪を脅迫する
袁術は孫策に揚州各地の攻略を進めさせる一方で、自身は北の徐州を攻略しようとします。
徐州の刺史・陶謙は当初、袁術に従っていたのですが、袁術が曹操に敗れると心変わりをしました。
陶謙は徐州に救援にやってきた劉備に、豫州刺史の地位を与えて味方につけると、勢力を拡大して自立の道を模索し始めます。
これに対し、袁術は陶謙の勢力を削り取るために、徐州の実力者である陳珪を寝返らせようとしました。
袁術は陳珪に対し、次のような手紙を送ります。
「昔、秦が誤った政治を行ったため、天下の群雄はきそって政権を奪い合い、知恵と勇気を兼ね備えた者が最後にその果実を手にしました。現在、世の中は乱れに乱れ、再び瓦が砕け散っています。まことに英傑が行動を起こすべき時です。あなたとは昔なじみですから、援助をしてくださいますね。そして大事業を興す際には、腹心になってくれるものと期待しています」
袁術はこのような手紙を送るだけでなく、陳珪の子・陳応を捕縛して人質にとって脅迫をしました。
しかしそこまでしても、陳珪にきっぱりと拒絶されており、結局は自分の名声を貶めただけに終わっています。
陳珪の家もまた三公を輩出している名門の家柄で、このために袁術とも若い頃から付き合いがありました。
つまり袁術は、親しい知人の子どもを人質に取り、脅したのだということになります。
袁術のやることなすこと、全て野盗の類いのふるまいであり、名門と呼ばれた家からどうしてこのような人物が出てきたのか、いささか不思議にも感じられます。
劉備が徐州刺史となり、袁術と戦う
やがて陶謙が病死すると、徐州の人々は劉備に刺史になってくれるようにと、熱心に要請しました。
劉備の人徳と袁術の横暴を比較し、劉備が刺史になってくれた方が徐州のためになる、と判断したのでしょう。
劉備は力不足であることと、袁術が4代の間に5人もの三公を輩出した名門の出身であることを理由に、袁術を刺史にすべきではないかと返答します。
この劉備の発言からも、当時は袁氏の影響力が大きかったことがうかがえます。
しかし、陳登(陳珪の子)ら、徐州の有力者たちに説得され、劉備は徐州刺史を引き受けることにしました。
こうして袁術と劉備は対立関係となり、戦いが発生することになります。
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