皇帝を名のり、仲を建国する
袁術は197年になると、天の意志を示す瑞兆が下ったとして、ついに皇帝を僭称してしまいました。
そして九江の太守を首都の長官に任命し、公卿の位を定め、祭祀を行って自身が皇帝になったことを世に示します。
袁術はもともとは放蕩者だったことは既に触れていますが、皇帝を名のると、その傾向はますます強まり、荒淫と奢侈に溺れる生活を送るようになりました。
後宮に数百人の美女を集め、豪華な衣装で着飾らせ、上質な肉などの豪華な食材が、ありあまるほどに倉庫につまれます。
袁術はそういった贅沢を維持するために重税を課したため、士卒は飢え、住民は互いに食い合いをするほどの惨状になってしまいました。
この結果、袁術からは名門の威光も完全に消え去り、ただでさえ損なわれていた人望は、ついに底をついてしまいます。
孫策は、初めのうちは即位を諫めましたが、聞き入れられないと悟ると、やがて袁術を見限って離反し、独立を果たします。
その他の家臣たちからも、離反するものが相次ぎました。
そして諸侯たちの中に、袁術の帝位を認める者は一人もおらず、袁術は僭称者として、天下の中で孤立しました。
つまり袁術は一時の悦楽のために、すべてを失ったことになります。
【この頃の勢力図 袁術は揚州の北部を抑えるのみの立場で皇帝を名のった】
呂布に婚姻をもちかけるも、断られる
こうして味方がいなくなり、家臣に去られた袁術は状況を挽回するため、先に対立していた呂布に婚姻を持ちかけました。
しかし呂布は陳珪の意見を受け入れ、これを断っています。
さらに呂布は袁術の使者を捕らえて曹操に送りましたが、すると曹操が、逆賊に仕える逆臣であるとして処刑しました。
こうして呂布と袁術は完全に手切れとなり、使者を殺されたことに激怒した袁術は、配下の張勲に命じて徐州に攻め込ませました。
しかし張勲は呂布に大敗し、いたずらに兵力を失うのみの結果となっています。
陳国に侵攻するも、曹操に敗れる
その後、袁術は陳国を統治する、皇族の劉寵に支援を求めます。
しかし後漢をさしおいて皇帝を僭称した袁術に、後漢の皇室の血を引く劉寵が援助をするはずもなく、すげなく断られました。
このあたりの行動から、袁術は自分が何をしでかしてしまったのかが、よく理解できていなかったのだと思われます。
これに怒った袁術は、劉寵を暗殺して陳国を奪い取ってしまいました。
しかしこれが曹操の攻撃を招き寄せ、陳国に侵入されます。
袁術は4人の将軍を派遣して曹操を迎撃させますが、彼らは1人残らず曹操に討ち取られ、袁術の軍勢は壊滅しました。
この敗北によって袁術の勢力は著しく衰退し、以後は攻勢に出ることができなくなります。
呂布が滅ぼされる
やがて袁術は、曹操の前に劣勢となっていた呂布と同盟を結びました。
両者は少し前に戦ったばかりでしたが、どちらも追い詰められたため、やむなく結びついたのでした。
その後、呂布は曹操の領地に攻め込むものの、逆襲されて大敗し、下邳に籠城する状況となります。
このため、呂布は袁術に支援を求めましたが、以前に劉備を討とうとして裏切られたことや、使者を処刑されたことを思い出し、袁術は呂布を信用せず、援軍を送ることなく見殺しにしました。
やがて呂布は曹操の水攻めによって下邳の守りを破られ、捕縛されて処刑されます。
こうして袁術と呂布の同盟は、互いに何ももたらさずに終わりましたが、どちらも信義に欠けた人物でしたので、必然的な結果だったのだと言えるでしょう。
部下にも拒絶される
こうして勢力も信望も同盟者も、何もかもを失った袁術は、部下の雷薄と陳蘭の元に身を寄せようとします。
しかし彼らにも拒絶され、袁術には行き場がなくなりました。
恐慌に陥った袁術は、最後の手段として、同族に助けを求めることにします。
袁紹に手紙を送る
勢力を失い、部下に見捨てられ、いよいよ追い詰められると、袁術はついに帝位を投げ出すことにしました。
これは199年のことで、皇帝を名のってからわずか2年目の出来事です。
中国の長い歴史を通しても、皇帝を名のっておきながら、2年しか国を保てなかった例は他にないでしょう。
袁術は袁紹に使者を送り、次のような手紙を届けています。
「漢王朝が天下を失ってからずいぶんとなりました。天子(皇帝)は人から支えられて何とか地位を保っているありさまで、実権は重臣の手に渡り、豪族たちは互いに争い、領土を取り合っています。
これは周の末期、七国が割拠したのと同じ状況であり、結局は強者が彼らを統合するでしょう。袁氏が天命を受けて王者となるべきことは、瑞兆によって示されています。
あなたは四つの州を支配して、戸数は100万にのぼり、強さは比類なく、徳義の面でも他の追随を許しません。
曹操が衰弱した漢王室を助けようとしても、どうして天命が絶えたものを継続し、すでに滅亡しているものを救うことができるでしょう」
この頃には群雄の中で、曹操と袁紹が勝ち残り、やがては決戦が行われそうな情勢となっていました。
袁術は両者のうち、兵力に勝る袁紹が勝利するだろうと見込み、帝位をゆずって庇護を受けようとしたのです。
結果から言うと、この見込みは間違っており、やはり袁術には時勢を見定める目はありませんでした。
かつてのライバルが零落し、助けを求めて来たわけですが、袁紹は袁術の手紙をもっともな内容だと思い、袁術を受け入れることにします。
つまり、袁紹もまた内心では帝位への野心を持っていたのでしょう。
また、同族のよしみで、落ちぶれた袁術を見捨てるのは忍びなかったのだと思われます。
このあたりの動きを見るに、袁紹の方が袁術よりも度量があったのだと言えます。
袁紹は青州を支配させている長男の袁譚に命じ、袁術を迎えさせようとしました。
【次のページに続く▼】