最期に蜂蜜を求めるも、得られず
こうして袁紹に手をさしのべられた袁術は、青州に向かおうとしますが、その動きを知った曹操が、劉備らを派遣して妨害したため、足止めを受けました。
(劉備は徐州を呂布に追われた後、しばし曹操の傘下に入っていました)
そうして時間が経過するうちに、やがては兵卒たちを養う食糧がなくなってしまい、袁術の側からは、ますます人が去っていきます。
残った食べ物は麦のくずばかりという、みじめな状況になりました。
夏の暑い盛りの時期でしたので、袁術は喉を潤そうと、蜂蜜が入った飲み物を求めます。
そして炊事係に「蜂蜜はあるか?」とたずねますが、「もう蜂蜜すらも残っていません」と返事がありました。
このため、袁術は木の寝台に腰を下ろし、ため息をつきます。
やがて大声で「袁術ともあろうものが、こんなざまになったか!」とどなると、失意のあまり急病にかかりました。
そして寝台の上にうつぶせになったかと思うと、一斗(約2リットル)もの血を吐いて死去しています。
こうして袁術はすべてを失い、何者にもなれぬまま、その生涯を閉じました。
袁術評
三国志の著者、陳寿は袁術について「豪奢多淫で欲望のままにふるまった。自分の一生を終わるまで栄華を保てなかったのは、自業自得である」と評しています。
これに対し、三国志に注釈をつけた裴松之は、「袁術は毛筋ほどの功績、糸くずほどの善行もないのに、当時勢力をもって荒れ狂い、いい加減な気持ちで自分から皇帝の位についた。これには正義の士がくやしがったが、生者も死者も、ともに憎悪すべき人間である。たとえ慎み深い態度を取り、倹約を実行したとしても、日をおかず滅亡したことだろう。陳寿の評はその大悪を表現するのには不十分である」としています。
裴松之は忠節を重視する人物でしたので、袁術にはことさら厳しい評価を下しています。
実際のところ、袁術には徳と呼べるものが、かけらほどもなく、何ひとつ他人のためになることをしませんでした。
暴君として知られる董卓ですらも、部下たちには気前よくふるまって慕われていたことを考えると、それ以下の人間なのだと言えるでしょう。
袁術の一生は、ひたすらに自分の欲望を満たすためにあり、そのためには他人をいくら踏みにじってもかまわないという、過度な思い上がりを抱いていたようです。
袁術当人にはさしたる能力はありませんでしたが、名門の出身だったことで、実力以上に周囲から持ち上げられることが多く、それが袁術に過大な自己評価をもたらしたのかもしれません。
袁術が不幸な終わりを迎えたのは、まったくその行状にふさわしいものだったと言えます。
なお、袁術の妻子は後に孫権に引き取られました。
そして娘が孫権の後宮に入り、子の袁燿は郎中(近衛兵)に取り立てられています。
そして袁燿の娘は孫権の子・孫奮の正室となっており、厚遇を受けたのだと言えます。
これは袁術がかつて孫堅・孫策の主君であったことと、袁氏の名門としての声望の残滓がなさせたことであったのでしょう。