龐淯は字を子異といい、酒泉郡表氏県の出身です。
初めは涼州の従事となり、破羌の県長を代行していました。
するとある時、武威の太守である張猛が反乱を起こし、刺史(州長官)の邯鄲商が殺害される事件が発生します。
この時に張猛は「あえて邯鄲商の喪を発する者があれば、決して容赦せず、死刑にする」と布令を出しました。
龐淯はこれを聞くと、官位を捨て、昼夜を問わず奔走し、邯鄲商の遺体が置かれている場所に行って号泣します。
その後で匕首を懐に入れて張猛の門を訪れ、会見して殺害しようとしました。
張猛は龐淯が義士であることを知り、殺害しないようにと部下に命じます。
この事件によって、龐淯は忠烈の士として世に知られるようになりました。
魏略の記述
『魏略』という史書によると、張猛の兵は龐淯を捕縛しようとしましたが、張猛がこのことを聞くと、「張猛は刺史を殺害したことで罪人となった。この人は至忠によって名を成すだろう。彼を殺害すれば、何をもって州の義士を励ますことができようか」と述べて嘆息した、とされています。
そして張猛は龐淯が喪に服すことを許したのでした。
なお、張猛はこの後で将軍の韓遂によって討伐されています。
救援要請に赴く
この話を聞いた太守の徐揖は、龐淯を主簿(側近)に任命しました。
それから後に、郡民の黃昂が反乱を起こし、城が包囲される事件が発生します。
すると龐淯は妻子を城に置き去りにし、夜の間に城壁を乗り越え、包囲から抜け出しました。
そして張掖と燉煌の二郡に急を知らせます。
初めはこの知らせを疑われ、兵を出してもらえませんでした。
このため、龐淯が剣の上に身を伏して証を立てようとすると、二郡の太守はその義心に感じ入り、兵を派遣します。
しかし援軍が到着する前に城が陥落し、徐揖は戦死しました。
龐淯は徐揖の遺体を収容し、故郷に送り届け、三年の間、喪に服してから帰還します。
曹操はこの話を聞くと、龐淯を掾属(大臣の属官)に取り立てました。
曹丕からも取り立てられ、やがて亡くなる
曹丕が魏の皇帝に即位すると、駙馬都尉に任命され、やがて西海太守に昇進します。
そして関内侯の爵位も与えられました。
後に朝廷に戻り、中散大夫(顧問官)となった後で亡くなっています。
子の龐曾が後を継ぎました。
母親が仇討ちをしていた
その昔、龐淯の外祖父である趙安は、同じ県の李寿に殺害されました。
龐淯の伯父である三人の兄弟(趙安の息子たち)は同じ時期に病死しており、このために李寿は敵討ちにあうことはないだろうと考え、喜びます。
すると龐淯の母である娥は、父の仇を討てないことを気に病み、やがてとばりを付けた車に乗って、剣を袖に隠しました。
そして日中に、城内の屋敷の前で李寿を殺害し、仇討ちを果たしました。
それから県の役所を訪れ、顔色を変えずに「父の仇に報いました。どうか死刑にしてください」と申し出ます。
禄福県長の尹嘉は、娥を処罰するのは忍びないと考え、印綬をはずし(官職を辞任し)、娥を釈放しようとしました。
しかし娥がこれを受け入れなかったので、無理やり家に帰らせます。
このころ、ちょうど恩赦があったので、娥は罪を免れることができました。
州郡の者たちは娥の奇特な行いを称賛し、このことを石に刻みつけ、街の門のところに設置して、娥を顕彰しています。
このように、母子ともに義に厚く、行動力があったのでした。
『烈女伝』という書物の中で、次のように評されています。
「父母の仇とは天地をともにしないものだが、仇討ちは男子の行うものである。
しかし娥はか弱い女の身でありながら、父が受けた屈辱の痛ましさを気に病み、仇の凶悪な発言に対して復讐の心を奮い立たせ、剣を仇の首にふるい、人と馬をともに打ち倒した。
これによって亡父の怨魂を鎮め、三人の弟の永きに渡る恨みをすすいだ。
ここ最近の時代では、かつてなかったことだ」
龐淯評
三国志の著者・陳寿は「龐淯はその身を剣に伏すことをはばからず、その誠意は隣国の者たちですらも感嘆させた」と評しています。
龐淯は政治や軍事において大きな実績があったわけではありませんが、激しい忠義の心によって名を残した人物だと言えます。