残された袁紹軍は全滅する
沮授が懸念していた通り、袁紹は全軍を渡河させていたため、敗北すると河に阻まれてその大半が逃げ切ることができず、曹操に降伏を申し入れました。
これらの軍兵のうち、偽って降伏したとみなされた者は、すべて生き埋めにされます。
これは八万人にも上ったと記録されています。
こうして袁紹軍は全滅状態となり、官渡の戦いは袁紹の完敗に終わりました。
沮授が捕縛される
沮授は袁紹の渡河に間に合わず、生け捕りにされて曹操の元に引き出されます。
曹操は沮授と昔なじみだったので、自分に仕えるように求めました。
「本初(袁紹)は智謀に欠け、君の計略を用いなかった。
動乱が起こってからずいぶんと時が過ぎたが、国家はいまだに安定しない。
君と一緒にこの事業に取り組みたいものだ」
すると沮授は「叔父も、母も、弟も、みな袁氏に生命を託しています。
もし公に配慮していただけますのであれば、速やかに私を死なせていただければ幸いです」と答えました。
沮授は一族がみな袁氏に属していたため、離れたくても離れられない境遇にあったのです。
すると曹操は残念がり、「私が君をもっと早く得ていれば、天下を平定できていただろうに」と言いました。
それでも曹操は沮授を厚遇しましたが、沮授は袁紹の元に帰ろうとはかったために、殺害されてしまいます。
こうして沮授はその力量を発揮しきれぬまま、不幸な終わりを遂げることになりました。
田豊は投獄されていた
沮授とともに南征に反対していた田豊は、戦いが始まる前に、次のように袁紹に進言していました。
「曹操は巧みに兵を操り、変幻自在に策略を用います。
軍勢は少なくともあなどれませんので、持久戦に持ち込むのがよろしいでしょう。
将軍は天然の要害を抑え、四州の軍勢を擁し、外は英雄と同盟を結び、内は農業と軍備を整えてください。
そして精鋭を選び、奇襲部隊を複数編制し、敵の虚に乗じて交代で出撃させ、河南を混乱させます。
敵が右を救援すれば左を撃ち、左を救援すれば右を撃ち、右往左往させて疲労させ、民衆が安心して生産活動に従事できないようにします。
そうすれば、我が方はさしたる労力を用いずに、敵が困窮していきますので、二年もたたないうちに、いながらにして勝利を収めることができます。
いま、そのような勝利の策を捨て、勝敗を一戦で決するおつもりですが、もしもうまくいかなかった場合、後悔してもどうにもなりません」
しかし袁紹はこれを聞き入れなかったので、田豊は必死になって諫言をしました。
すると袁紹は激怒し、放っておくと兵士たちの士気が下がる、という理由で田豊を投獄させています。
田豊は死を予見する
袁紹が敗北したという知らせが届くと、ある者が田豊に「あなたは必ず尊重されるでしょう」と言いました。
しかし田豊は「もしも戦況が有利なら、わしは命をまっとうできただろう。しかし戦いに敗れたのなら、わしは死ぬだろう」と予見します。
袁紹が帰還すると、側近の者に「わしは田豊の言葉を用いなかったから、嘲笑される結果になってしまった」と述べました。
すると逢紀が「田豊は殿の敗北を知り、嘲っています」と偽りを吹き込んだので、袁紹は辱められることを恐れ、田豊を殺害させました。
ここでも袁紹陣営のまとまりのなさと、人を蹴落として自分が地位を得ようと、浅ましくうごめく者の姿が現れています。
曹操は田豊が遠征に加わっていないと知ると喜び、袁紹を打ち負かした後では、「もしも袁紹が田豊の計略を採用していたら、どうなっていたかわからない」と述べました。
良策に耳を貸せず、あげくに失敗すると田豊を殺害してしまうという行為の中に、袁紹という人物の愚かさが如実に示されています。
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