袁紹 曹操と覇を競うも、官渡で敗れた名門の当主

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袁紹の器量の乏しさ

このようにして、袁紹の陣営には沮授と田豊という優れた人物たちが属していたのですが、その力を充分に活用できなかったために、袁紹は曹操に敗れたのでした。

沮授と田豊の能力は、曹操の側で言えば荀彧や荀攸などと比べても遜色がなく、人材を選び、用いる総帥の能力の差によって、明暗が分かれたのだと言えます。

袁紹は表面的には寛大で上品で、度量があるように見せていました。

そして感情を表に出しませんでしたが、実際には猜疑心が強く、他人を容易に信用できない性格だったのです。

人格が曹操と比較すると明らかに劣っており、それが一時は大勢力を築いても、維持できない結果を招いたのでした。

憂いにとらわれ、死去する

官渡の大敗の影響によって、冀州の城邑じょうゆうの多くが反乱を起こしました。

袁紹はそれらを撃破し、再び平定します。

しかしやがて発病し、202年に憂いを抱えたままで死去しました。

曹操に打ち勝つことにこだわっていましたが、有利な状況を覆され、臣下の助言を無視して敗れたことが、心を蝕んでいたのでしょう。

死後に後継者争いが起き、袁氏が滅亡する

袁紹はかねてより、三男の袁しょうをその美貌ゆえに愛し、後継者にしたいと思っていましたが、正式には定めないままでした。

このため、その死後に後継者争いが起き、長男の袁譚派と袁尚派に臣下たちが分かれ、抗争を開始します。

曹操はこれを利用し、まず袁譚に味方をして袁尚を討伐し、その後で袁譚も討って北方を平定しました。

これによって曹操はすっかりと袁紹の勢力圏を吸収し、並ぶ者のない強大な実力を備えるようになります。

このようにして、袁紹の度重なる晩年の過ちによって、名門だった袁氏は滅亡し、代わって曹氏が台頭したのでした。

袁紹評

三国志の著者・陳寿は袁紹を劉表と並べ、次のように評しています。

「袁紹と劉表はともに威厳のある風貌を備え、度量も見識もあるように見え、当時は評判の高い人物だった。

劉表は漢江の南を支配し、袁紹は黄河の北に勢力を築いた。

しかし両者とも、表向きは寛大であっても内面では猜疑心が強く、謀略を好むものの、決断力がなかった。

有能な人材を用いることができず、よい意見を聞き入れることができなかった。

そして嫡子を廃して庶子を後継者に立て、礼を軽んじて愛情を優先した。

後継者の時代になってからつまづき、社稷しゃしょく(家系)が傾いたのも、不幸なことだとは言えない。

その昔、項羽は鴻門こうもんの会で、劉邦を抹殺しようとする范増はんぞうの計略に背いたために、王業を失った。

袁紹が田豊を殺害したのは、項羽の失策よりも、はなはだしくひどいものである」

袁紹は後漢末期の混乱を引き起こした主要人物の一角であり、事態の収拾に失敗して敗れ去った人物だと言えます。

董卓を招聘する策も、献帝の軽視も、曹操との決戦も、後継者問題も、全てにおいて判断を誤っており、賢明さが欠けていました。

それでも名門出身の名声と、当人の見せかけの立派さによって勢力を築きましたが、信頼すべき人物を信頼せず、信頼すべきではない人物を信頼したことで、全てを失っています。

つまるところは、袁氏の出身だったから世に顕れただけで、袁紹という一個の人物の力量はたいしたものではなく、時が過ぎるにつれて虚飾が剥がれ落ち、本性が露わになったのだと言えます。