劉封 劉備の養子になるも、諸葛亮によって自害させられた武将

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劉封りゅうほうけい州の名族の生まれで、劉備の養子となった人物です。

武勇に秀でていたために、将軍として用いられますが、関羽を見捨て、部下の孟達もうたつと仲違いをし、蜀の領土を失うという失態を演じました。

その責任を問われ、いずれ劉禅と後継者争いを起こすことを懸念した、諸葛亮の進言によって、自害に追い込まれています。

この文章では、そんな劉封の生涯を書いています。

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寇氏の子として生まれ、劉備の養子になる

劉封は候という爵位を得ていた、こう氏の子です。

寇氏は後漢の功臣である、寇恂こうじゅんの子孫ですので、名門の家柄だったのだと言えます。

羅県は荊州の長沙ちょうさ郡にあり、劉封はこの土地に住む劉氏(漢王室の一族)の血縁者でもありました。

つまり劉封は名門の出身で、漢王室とも関わりのある血統の持ち主だったのでした。

劉備が荊州にやってきた際には、まだ後継ぎがいなかったのですが、このために養子となります。

益州の平定で活躍する

劉備は荊州南部を制圧した後、劉璋りゅうしょうに招かれて益州に入りました。

やがて劉備は劉璋と仲違いをし、益州を攻撃しましたが、この時に劉封は二十歳になっていました。

そして武芸を身につけ、常人に勝る気力を備えていたために、攻略戦に参加することになります。

劉封は諸葛亮や張飛とともに、長江をさかのぼって西に向い、行く先々で勝利を得ました。

益州が制定されると、劉封は功績によって、副軍中郎将ちゅうろうしょう(上級指揮官)に任命されています。

こうして劉封は、武官としての地位を得て活動するようになりました。

劉封の生年は不明ですが、劉備が益州を平定したのが214年でしたので、194年頃に生まれたことになります。

そして、劉備が荊州におもむいたのが201年ですので、養子になった時には、まだ幼い子供だったのでした。

曹操に攻撃をしかけると、曹操が激怒する

その後、劉備は漢中をめぐって曹操と争いましたが、やがて曹操から攻撃を受けました。

その際に、劉備は山上の要塞にこもって守りを固めつつ、劉封に命じて曹操を攻撃させます。

すると曹操は「靴屋の小せがれのくせに、成長すると偽の子供を使ってわしに抵抗させるとは!

わが黄髭きひげを呼んで攻撃してやるから待っておれ!」と劉備を罵倒した、という話があります。

靴屋のこせがれとは劉備のことで、子供の頃にわらじやむしろを編んで家計を助けていたことから、曹操はこのように劉備を呼んだのです。

そして黄髭とは曹操の子・曹彰のあだ名で、養子をけしかけてきた劉備に、実子をぶつけて倒してやる、と息巻いたのでした。

この時の曹操は、劉備に漢中を取られて相当に頭にきていたようで、それが劉備と劉封に対する、口汚い罵りにつながったようです。

孟達を統率するため、上庸に向かう

劉備と劉璋の関係が破綻する以前のこと、劉璋は扶風ふふう出身の孟達を、法正の副官として荊州に派遣しました。

そして二千の兵士を統率させ、劉備を益州に迎える使者の役を務めさせます。

これを受け、劉備はそのまま孟達に軍を指揮させ、荊州の江陵に駐屯することを命じました。

やがて益州が平定されると、劉備は孟達を宜都の太守に任命します。

そして219年になると北方に向かわせ、魏の領土である房陵ぼうりょうを攻撃させました。

すると孟達は太守の蒯祺かいきを討ち取り、房陵を占拠します。

孟達は軍を進め、さらに上庸じょうようを攻撃しようとしますが、劉備は孟達一人に任せることに不安を感じたので、 漢中から劉封を派遣し、孟達の軍を統率させることにしました。

劉封地図

副軍将軍となる

当時、上庸の太守は申耽しんたんでしたが、彼は劉封と孟達の軍が迫ると降伏し、妻子と一族を劉備の本拠である成都に人質として赴かせたので、上庸は蜀のものとなります。

劉備は申耽を征北将軍に任命し、その弟の申儀しんぎを建信将軍に任命しました。

そして劉封を副軍将軍に昇進させ、上庸に駐屯させます。

上庸は、蜀と魏の国境地帯にある、広大で堅固な土地でしたので、劉封は重要拠点の防衛を担うことになったのでした。

【次のページに続く▼】

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