劉備によって粛清される
劉封が成都に到着すると、劉備は、孟達を圧迫して魏に寝返らせてしまったことや、関羽を救援しなかった件について、劉封の責任を追及しました。
これに加え諸葛亮は、劉封は剛勇な性格なので、代替わりの際に、制御が難しくなるだろうと判断します。
つまり劉封は気が強いので、生かしておけば、劉備が亡くなった際に、後継者の地位を要求し、柔弱な劉禅と争って騒動を起こすことが懸念されたのでした。
こういった事情により、諸葛亮はこの際、劉封を除くようにと劉備に進言をします。
劉備は諸葛亮の意見を受け入れ、劉封に死を賜り、自決することを命じました。
劉備からしても、関羽の件で劉封を恨んでいた上に、劉禅の立場を危うくする劉封は、もはや生かしておくべきではないと、判断しうる存在になっていたのです。
劉封は死に際して嘆息をし、「孟子度(達)の意見を採用しなかったのが、残念だ」と言いましたが、すでに後の祭りでした。
劉備は、劉封のために涙を流したと言います。
国家の統制上、やむを得ない処置だったとは言え、養子にした劉封への情は残っていたのでしょう。
劉封の子の劉林は、粛正されずに起用され、後に牙門将(大将軍の副官)にまでなりました。
そして蜀が滅亡した後、河東に移住した、という話が残っています。
劉封評
三国志の著者・陳寿は、劉封を次のように評しています。
「 劉封は疑いをかけられる立場にありながら、身を守る配慮をし、対策を立てることができなかった。
その行動を観察し、品行を調べてみると、災いを招いて罰せられたのは、全て身から出たさびだった」
劉封が度重なる失態を犯した上に、もはや蜀にとって邪魔者になりつつあることを自覚せず、成都に戻ってしまったのは、軽率なふるまいだったと言えるでしょう。
そして関羽を救援せず、孟達を離反させてしまったところを見るに、人との調和に問題を抱えていたことがうかがえ、それが将来騒動を起こすだろうと、諸葛亮に懸念された原因になっていると思われます。
自害までさせられてしまったのは、哀れに感じられるところもありますが、逃げ道があったのにそれを利用しなかったのは、劉封自身の責任でもありました。
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