袁紹 曹操と覇を競うも、官渡で敗れた名門の当主

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油断から危機に陥る

袁紹はこの間、後方に待機しており、橋から十数里のところで馬を下り、鞍を外しました。

そして公孫瓚が敗北したのを見ると、防衛体制もしかず、数十張の弩部隊と、大ほこを手にした百名の兵を従えただけの状態となります。

するとそこに、逃走中だった公孫瓚軍の騎兵二千騎あまりが突如として襲来し、袁紹を包囲しました。

そして弓矢を雨のように射かけて来たので、袁紹は危機に陥ります。

かろうじて難を逃れる

この時、別駕べつが従事(側近)の田豊でんほうが袁紹を助け、垣の隙間に袁紹を避難させようとします。

すると袁紹は兜を地面にたたきつけ、「大丈夫たる者は、戦いにおいては突き進んで死ぬべきだ。

垣の隙間に逃げ込んでまでして、生き延びようとは思わぬ!」と言いました。

やがて味方の弩が発射され、多くの敵兵を殺傷します。

公孫瓚の騎兵隊は、これが袁紹の部隊だとは気づいていなかったため、さほど執着せず、反撃を受けると次第に引いていきました。

そこに麹義が迎えに来たため、散り散りとなって逃げていきます。

このようにして、袁紹は戦いに勝利したのに危うく討ち取られかけており、前線の駆け引きや指揮は、さほど得意ではなかったことがうかがえます。

なお、麹義は公孫瓚を打ち破る上で大活躍をしましたが、後に功績を頼みにして驕り高ぶり、勝手なふるまいをするようになったので、袁紹によって粛正されています。

賊の襲撃を受ける

こうして公孫瓚を撃破すると、袁紹は軍を移動させ、南方にある薄洛津はくらくしんに到着し、そこで食客や諸将と宴会を催しました。

すると魏郡の軍勢が反乱を起こし、黒山賊の于毒うどくと手を結んでぎょう城を攻め滅ぼし、太守の栗成りっせいも殺害された、との知らせが届きます。

賊は十部隊で、軍勢は数万おり、鄴中に結集しているとのことでした。

宴席にいた者の中には、鄴に住んでいる者もおり、みな不安と恐怖に包まれ、顔が真っ青になって泣き出す者まで現れます。

そんな中で、同じく家族が鄴にいたにも関わらず、袁紹の顔色は変わらず、落ち着き払っていました。

賊の陶升が袁紹の家族を守る

賊の中には陶升とうしょうという者がいましたが、もともとは内黄ないこうという土地の小役人でした。

反乱に対して乗り気ではなかったようで、単身で部下を率い、西方の城壁を乗り越えて鄴に入ると、州庁の門を閉鎖してこれを守ります。

そして他の賊たちを中に入れず、袁紹の家族や官吏たちを馬車に乗せ、自ら護衛を務め、斥丘せききゅうまで送り届けてから引き返しました。

そこに袁紹が到着し、斥丘に駐屯すると、陶升の功績を認めて建義中郎将に任命します。

こうして袁紹は家族を失うことも、人質に取られることもなく、賊との戦いに専念できるようになりました。

このあたりは、袁紹に人望があったということなのでしょう。

賊を撃破する

袁紹は軍を返して蒼厳そうげん谷に侵入し、于毒を攻撃します。

そして五日間の包囲線の末に撃破し、于毒と、董卓が任命した冀州牧の壺寿こじゅを討ち取ります。

さらに山中を北上し、左髭丈八さしじょうはちらを攻撃し、全て斬り捨てました。

また、劉石・青牛角・黄龍といった賊の頭目たちの砦を攻撃し、すべて打ち砕いて抵抗の拠点を喪失させます。

彼らは逃走しましたが、袁紹は数万の首級を得て大勝利を飾りました。

こうして袁紹は賊の攻撃を跳ね返し、壊滅させ、冀州の安全を確保します。

それから引き返し、再び鄴に駐屯しました。

皇帝の使者が和解を促す

193年になると、献帝は太傅の馬日磾ばじつてい太僕たいぼく(皇帝の側近)の趙岐ちょうきを派遣し、関東の将軍たちを和解させようとします。

趙岐が河北にやって来ると、袁紹は百里先まで行ってこれを出迎え、皇帝の命令を承りました。

趙岐は袁紹の陣営に到着すると、公孫瓚にも和解に応じるようにと書簡を送ります。

すると公孫瓚は袁紹に手紙を送り、これを受けることを伝えてきました。

公孫瓚は先の戦いに敗れて不利な状況におかれていましたので、これ幸いと乗ってくる姿勢を見せたのです。

しかし、袁紹は内心では献帝を軽んじており、公孫瓚との戦いは継続されました。

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