袁紹 曹操と覇を競うも、官渡で敗れた名門の当主

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曹操を非難する檄文を発する

袁紹は幕僚の陳淋ちんりんに命じ、曹操を弾劾する檄文を書かせ、州郡に配布します。

この文書の中では、実態をねじ曲げた誹謗中傷がなされており、曹操が極悪人に見えるように描かれています。

たとえば、袁紹が呂布を撃破して曹操を助けたことになっていますが、これは曹操が自分で成し遂げたことでした。

また、袁紹は実際には献帝を見捨てようとしたのに、この檄文の中では、曹操に命じて護衛させたことになっています。

にも関わらず、曹操が恩を忘れ、驕り高ぶって権力を独占しようとしたので、これを討つという筋書きになっており、一つのお話しとしては、なかなか説得力のある内容になっていました。

曹操もまたこの檄文を目にすると、「ここに描かれた曹操という人物には、わし自身でも怒りを覚える」と感想を漏らしています。

こうして対決姿勢をさらに鮮明にすると、袁紹はいよいよ曹操への攻撃を開始しました。

顔良が攻撃を開始するも、関羽に討たれる

袁紹は黎陽に進軍すると、顔良を白馬に派遣し、曹操軍の劉延りゅうえんを攻撃させます。

この時、沮授が「顔良は武勇には優れていますが、器量が小さいので、彼一人に任せてはいけません」と進言しましたが、袁紹は聞き入れませんでした。

やがて曹操が劉延の救援に駆けつけましたが、この軍勢には徐州で降伏していた関羽が加わっていました。

関羽は顔良の陣に斬りこむと、袁紹軍をけちらし、顔良の首を取って戻ってくるという離れ業を見せます。

これによって、白馬の戦いは曹操の勝利となりました。

文醜も討ち取られる

袁紹はさらに進軍し、黄河を渡って延津の南に砦を築きます。

そして劉備と文醜に命じ、曹操に攻撃をしかけさせました。

このとき、文醜は曹操軍が放棄した物資を奪おうと軍を分けましたが、この行動を曹操の軍師・荀攸じゅんゆうに予測され、強襲を受けて討ち取られてしまいます。

こうして二度の戦闘で、連続して先鋒の大将を失ったため、袁紹軍は恐慌に陥りました。

一方で曹操は官渡に引きあげ、防衛の構えを取ります。

沮授の意見を聞き入れず

黄河を渡る前にも、沮授は袁紹に反対の意見を述べていました。

「勝敗は常に変化するものであり、これを事前に予測しきることはできません。

まずは延津に軍営をとどめ、兵を分けて官渡に派遣なさるのがよろしいでしょう。

もし勝利すれば、その時に延津の軍勢を動かせばよく、全軍が黄河を渡って敗北すると、帰還するのが困難になります」

しかし袁紹が聞き入れなかったので、沮授は渡河に際して慨嘆します。

「上の者は志を遂げることだけを考え、下の者たちは功績を立てることだけを考えている。ゆうゆうと流れる黄河よ、私はもう戻れないだろう」

そして病気を口実にして辞去しました。

袁紹はこれを恨み、沮授の統括していた軍勢を郭図に所属させます。

この沮授の懸念は、後に現実のものとなりました。

袁紹軍が進軍する

袁紹は陣営を連ねて少しずつ前進させ、官渡に接近します。

それは東西で数十里にも渡る長大なもので、数の差をいかして曹操を圧迫しました。

曹操はこれを迎え討ちますが不利になったので、砦の中に立てこもりました。

すると袁紹は高いと盛り土の山を作り、曹操の陣営に矢を射かけさせます。

このため、曹操の陣営にいたものはみな楯をかぶってこれを防がなければならず、将兵たちが恐れを抱くようになりました。

諸説ありますが、この時の戦力は袁紹が10万、曹操が4万程度だったと言われています。

曹操の反撃

しかし曹操は公孫瓚とは違い、事態の悪化を黙って見過ごすことはありませんでした。

曹操は「発石車」を作り、袁紹軍の櫓に向かって発射し、これをすべて打ち砕きます。

袁紹の軍勢はこれを「霹靂へきれき車」と呼んで恐れました。

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