傅嘏は優れた見識を備え、政治や軍事に的確な意見を述べた人物でした。
魏の権力が曹氏から司馬氏へと移り変わる中、司馬氏と関係を持ち、その権力の維持に貢献しています。
このことから、晋代において、死後に改めて爵位を与えられるという待遇を受けています。
この文章では、そんな傅嘏について書いています。
北地に生まれる
傅嘏は字を蘭石といい、涼州の北地郡泥陽県の出身でした。
父の傅充は黄門侍郎(宮廷官)、祖父の傅睿は代郡太守で、代々官吏として朝廷に仕えています。
また、伯父の傅巽は黄初年間に侍中尚書(皇帝の側近)になっており、栄えていた一族でした。
傅嘏は若い頃から名を知られ、やがて司空(大臣)の陳羣に招聘され、掾(属官)になります。
何晏や夏侯玄との交際を断る
このころ、何晏はその才質によって高貴な人々の間で名を知られ、鄧颺は時勢の変化に巧みに応じ、徒党を組んでいました。
また、夏侯玄は高官の子として生まれ、若くして名声を得ており、彼らの間では中心的な存在になっています。
そして傅嘏とも交際を求めてきましたが、傅嘏はこれを断りました。
傅嘏の友人である荀粲は、清廉で遠い先のことも見通す見識のある人でしたが、それでもこのことを怪しみ、傅嘏と話します。
「夏侯玄は一時の傑物で、虚心に君と交際したいと思っている。
応じれば良い関係が築けるだろうし、応じなければ恨みを買うことになる。
二人の賢者の仲が悪ければ、国家にとって不利益となる。
これが藺相如が廉頗に気をつかった理由だ」
藺相如は戦国時代の趙の宰相で、成り上がり者であることから廉頗に嫌われていました。
しかし趙の柱石である自分たちが争うと、国家にとって損失となるので、廉頗といさかいをおこさないようにと気をつかっていたのでした。
傅嘏はこれに答えて言いました。
「夏侯玄はその器量に見合わぬ志をいだき、虚名を得ていますが、実際には才能はありません。
何晏は言葉は深遠ですが、感情は卑近で、語ることを好みますが、誠実さがありません。
いわゆる口先だけの者が国をくつがえす、というものです。
鄧颺は有能ではありますが、何事も最後までやり遂げられません。
外に対して名誉と利益を求めますが、内に対してはだらしがなく、自分に同調する者を尊重し、異を唱える者を憎み、よく発言する者に嫉妬します。
言葉が多くなると欠点も多くなり、優れた相手に嫉妬すれば、親しい者がいなくなります。
私がこの三人を見るに、みな徳が備わっていません。
遠ざかってもなお、災いにみまわれる可能性があります。
ましてや、親しくなったらどうなるでしょうか?」
後に何晏、鄧颺、夏侯玄の三人は、司馬氏によって処刑されています。
傅嘏が彼らと親しくしなかったのは、身を守る上で正しい選択だったことになります。
劉劭の制度を批判する
このころ、散騎常侍の劉劭が役人の査定をするための制度を作り、三公(大臣)の役所に議案が下ろされ、審議されました。
すると傅嘏は劉劭の論を批判します。
「皇帝が定められた制度は広く優れており、聖人の道は深遠だと聞いています。
それに適した才能がなければ、その道が行われることはありません。
神の力を明らかにするのは、それができる人の存在にかかっています。
王の政略が欠けて崩れ、道理が失われて繕われず、微細な言葉はすでになく、六つの経典は尽き果てています。
なぜかと申しますと、道は広く遠くにいたりましたが、多くの才能が表に現れることがなかったからです。
劉劭の勤務査定の論を勘案しますと、前代の降格や昇進に関する文章を基準にしているようですが、その制度については欠けたり失われたりしています。
礼のうちで存在しているのは、ただ周の典拠があるのみです。
外に対しては候や伯などの諸侯を立て、王城の周囲の土地を藩屏とし、内には諸官を立てて六つの職をそろえ、土地からは恒常的に貢物を得て、官は定められた規則があり、百官は等しく仕事があり、民はそれぞれに異なった生業を持ちます。
ゆえに勤務査定は理に基づき、降格も昇進も筋の通ったものになりました。
大魏は百代の王の後を継ぎ、秦や漢の隆盛を継承しましたが、制度はそうはいきませんでした。
建安から青龍の年代(196-237年)に至るまで、神のような武力をもって乱を鎮め、帝位の基盤を作られましたが、逆賊を片付け、残る敵を取り除くために、旗を巻いたり伸ばしたりするのに追われ、日々余裕がありません。
国を経綸して軍備を整えるには、権限と法律を併用し、百官は軍事と国政を通じて任じられ、時勢に即し、政治の変化に対応することになります。
昔の制度をいま実施しても、事態が煩雑な上に意義も異なりますので、通用させるのは難しいでしょう。
それはなぜかというと、遠く未来のことを考えて制度を定めても、最近の事情からすると適さないことがあり、法をその場に応じて制定し、後に残すには足りないものとなるからです。
官を建て、職務を均等にし、清廉さと道理をもって民を治めるのが、根本に立てるべきことです。
名をもって実を考え、既存の法律の誤りを正して励ますのが、末を治めるということです。
根本の綱紀が立ち上がらないうちに末の決まりを制定し、国家の方策が崇拝されないのに勤務考査を先に定めるのは、賢者と愚者の区別をし、定かならぬ理を測るにおいて、不足する事態になるのではないかと懸念いたします。
その昔、王が才能のある者を選び出す際には、必ず郷里での品行を元とし、学校で道義をならい、徳行が備われば賢者といい、道義を修めれば有能だとみなされました。
郷老は王に賢者と有能な者を推薦し、王は慎んでそれを受け取りました。
その賢者を用いる場合、地方の長官に任じ、有能な者を試す場合、朝廷に迎えて統治を任せました。
これが過去の王が人材を登用する意義です。
ただいま、九州の民から首都に及ぶまで、六つの郷からの推挙はなく、才能を選び出す仕事は、専任の役人が担当しています。
品行を勘案すると、必ずしも才能があるとは言えず、いくらかの功績を元にすると、徳行が重視されなくなります。
このような状況なので、優劣を判定する査定を行っても、いまだに人の才能を十分に取り上げられていません。
総合的に王の制度を扱い、国家の方式にあまねく努力を行き届かすのは、対象が深く広大ですので、難しいことです」
何晏を批判する
正始の始め(240年)になると、尚書郎(政務官)に任命され、やがて黃門侍郎(宮廷官)に昇進しました。
このころ、皇帝は幼く、一族の曹爽が政治を取り仕切り、何晏が吏部尚書になります。
すると傅嘏は曹爽の弟の曹羲に、次のように述べました。
「何晏は外見は静かですが、内面では角が多く、利益を好み、根本的なことをおろそかにしています。
私はまず先にあなたたち兄弟が惑わされ、仁を備えた人たちが遠ざかり、朝政が廃れることになるのではないかと心配しています」
このように批判したので、やがて何晏は傅嘏を嫌うようになり、ささいな理由で傅嘏を免官にしました。
司馬懿に用いられる
その後、傅嘏は滎陽太守に任命されたものの、受けませんでした。
やがて司馬懿に請われると、従事中郎に就任しています。
司馬懿がクーデターを起こし、曹爽や何晏らが処刑されると、河南尹(首都の行政長官)に任命され、尚書に昇進しました。
こうして傅嘏は司馬氏が支配するようになった朝廷に復帰します。
制度改革について考えを述べる
傅嘏はいつも次のように意見を述べていました。
「秦が初めて諸侯を廃止して太守を設置した。これは古代の制度と同じではない。
漢や魏はそれを引き継いで今に至っている。
しかるに、儒生や学者たちは三代(夏・殷・周)の礼を混ぜ合わせたいと望んでいる。
礼は広大で影響力が大きいが、時代の状況に応じなければ、制度との齟齬を引き起こし、名と実が分離してしまう。
代を重ねながら治者に至らないのは、これがその原因である。
官制を大いに改定し、古代の制度によって大本を正したいと思うが、今は帝室が多難な状況に置かれているので、改革をするのは難しい」
現在の制度に問題があるとわかっていても、三国時代が続き、世が安定しないうちは、思い切った改革をするのは難しく、現状を追認するしかない、というのが傅嘏の考えだったようです。
呉の討伐に意見を述べる
このころ、論者たちは自らが呉を討伐したいと考え、三人の将軍たちがそれぞれに異なる策を唱えました。
すると詔がくだされ、傅嘏に意見が求められます。
傅嘏は次のように答えました。
「その昔、夫差(古代の呉王)は斉をふみにじり、晋に勝ち、勢威が天下に行き渡りましたが、姑蘇で災禍にあって亡くなりました。
斉の閔王は、領土を併合し国境を広げ、千里の地を開きましたが、最後には国家が転覆しました。
初めがうまくいっても、善い終わりを迎えられるとは限りません。
孫権は関羽を撃破し、荊州を併合して後、欲望を膨らませ、その凶悪さは極まっていました。
このため、宣文侯(司馬懿)は広く深く物事を見通し、大軍を動員する策を建てられました。
いま孫権が死に、遺児は諸葛恪に託されています。
もし孫権の苛烈な暴政を改め、虐政を民から免じることができれば、新たな恩恵によってかりそめの安定を得て、内外の思惑がまとまり、同じ船に乗り合わせた者同士の恐れを共有し、それをずっと保つことはできないのだとしても、なお深い長江の外において、滅びの時を先延ばしにし、長らえることはできるでしょう。
しかしながら論者は、あるいは船を用いて渡河し、長江の対岸を横行しようとし、あるいは四つの道から並行して進撃し、その城や砦を攻撃しようとし、あるいは国境で田畑を作り、情勢を見て行動しようと考えています。
誠にみな、賊を討伐するための常道の戦術です。
しかるに、兵を動員して三年が過ぎていますが、襲撃を行える状況にはなりませんでした。
賊が呉を押領してから六十年にもなりますが、君臣は偽の位を立て、吉凶を共に患い、また元帥(孫権)を失い、上下ともにそのことを憂い、危機を感じています。
重要な港に船を配置し、堅城の守りを固められますと、横行する計画が成功するのは難しくなります。
軍を進めておおいに耕作を行うのは、手堅く安全でしょう。
兵士が住民の側に控えていれば、侵略されることはなくなります。
その場にとどまって積み上げた穀物を食するので、運搬の人員をわずらわすことがありません。
そして敵の隙に乗じて攻撃をしかけますので、遠くから出征する際に生じる、労力や費用の無駄がなくなります。
これこそが、軍にとっての急務です。
その昔、樊噲(前漢の武将)は十万の軍勢をもって匈奴(異民族)の地を横行したいと願い出ましたが、季布に直接その短所を指摘されました。
いま長江を越えて対岸を横行しようというのも、同類の計略だと言えます。
法を明らかにし、兵士を訓練し、完全に勝利できる計略を立て、長い策をもって敵の残兵を抑えるのがよろしいでしょう。
これこそが必勝の策です」
しかし傅嘏の言葉は採用されず、魏軍は呉に攻めかかります。
そして諸葛恪に東関で撃破され、大敗を喫しました。
このようにして、傅嘏の意見が正しかったことが証明されています。
諸葛恪の意図を読み取る
諸葛恪は東関の戦いで勝利すると、勝ちに乗じて青州や徐州に向かうと喧伝しました。
このため、魏の朝廷は防備を固めようとします。
傅嘏は次のように意見を述べました。
「淮水(徐州方面にある河)も海も、賊軍が軽々と通行できる道ではありません。
その昔、孫権が兵を派遣して海に入らせましたが、漂流して沈没して溺死し、ほとんどが死亡しました。
諸葛恪がどうして全ての力を傾け、激しい流れに身を任せ、成否を賭けることなどするでしょう。
諸葛恪は水軍に習熟している小部隊の隊長を派遣し、海に入って淮水をさかのぼり、青州や徐州に示威行動をしようとしているだけです。
そうして陽動かけつつ、諸葛恪自身は兵を淮南に向けようとしているのです」
その後、果たして諸葛恪は青州や徐州には向かわず、合肥新城を攻撃してきましたが、勝つことができずに引き上げています。
傅嘏の見通しは的中したのでした。
爵位が与えられる
傅嘏はいつも才能と性格が一致しないことを論じていましたが、鍾会がそれを集めて論を立てました。
二人は年齢に差があったのですが、傅嘏は鍾会と交際していました。
これは鍾会の才能を買ってのことだったようです。
嘉平の末年(254年)になると、傅嘏は関内侯の爵位を与えられます。
そして曹髦が4代目の帝位につくと、武郷亭侯に爵位が進みました。
司馬師に討伐に向かうように進言する
正元二年(255年)の春になると、毌丘倹と文欽が反乱を起こします。
これは曹氏をないがしろにし、魏の朝廷を掌握しつつあった司馬氏に反感を抱いてのことでした。
このとき、司馬師が自ら討伐に行く必要はなく、太尉(国防大臣)の司馬孚を行かせればよい、と述べる者がいました。
これに対し、傅嘏と王肅の二人だけが、司馬師が自ら討伐した方がよいと勧めます。
司馬師は聞き入れなかったので、傅嘏は重ねて進言しました。
「淮や楚の兵は強く、毌丘倹らは実力に自信をもって遠方で戦っており、その鋭鋒に当たるのは容易ではありません。
もし諸将が戦って敗北し、大勢がひとたび失われれば、公の事業は失敗するでしょう」
この時、司馬師は目のコブを取り除いたばかりで、傷は治っていませんでした。
しかし傅嘏の言葉を聞くと、起き上がって言います。
「わしは病の身を車に乗せ、東に向かおう」
毌丘倹の討伐に貢献する
傅嘏は尚書僕射(政務副長官)に任命され、ともに東に向かいました。
そして毌丘倹や文欽を撃破するにあたり、傅嘏の策謀が貢献します。
やがて司馬師が亡くなると、傅嘏は司馬昭(司馬師の弟)とともに洛陽に帰還しました。
そして司馬昭の補佐を務めます。
鍾会に忠告する
この戦いでは鍾会もまた勝利に貢献し、大きな功績を上げました。
そして鍾会がそれを誇る様子を見せたので、傅嘏は戒めるために言います。
「君は野心がその器量よりも大きいから、功業を成し遂げがたい。よく慎むべきだ」
結局はこの指摘が的中し、鍾会は功業を成し遂げきれぬまま、反乱を起こして殺害されることになります。
やがて亡くなる
傅嘏は封陽郷侯に爵位が進み、六百戸を加増され、以前のものと合わせて千二百戸となりました。
この年に亡くなりましたが、四十七才でした。
太常の位が追贈され、元侯とおくりなされています。
子の傅祗が後を継ぎました。
咸熙年間(264-265年)になると、五等級の爵位制度が新しく作られました。
傅嘏は司馬昭の時代に著しい勲功があったことから、涇原子に改封されています。
傅嘏評
三国志の著者・陳寿は「傅嘏は才能と優れた見識があったので、顕官となった」と記しています。
これに対し、三国志に注釈をつけた裴松之は批判しています。
「傅嘏には優れた見識と器量があり、名士で、当時の一流の人物だった。
しかし評では『才能があったから顕官になった』としか記していない。
この表現は拙劣で、傅嘏の美点を表すのに不足している」
傅嘏は政治に関しても軍事に関しても的確な意見を述べることができる、優れた人物だったと言えます。
また人を見る目があり、処世においても巧みなところを見せています。
そして司馬氏が危機に陥りかけた時には、自ら戦場に赴いて勝利に貢献するなどしており、議論をしているだけの人物でもありませんでした。
このあたりを考えるに、裴松之が言う通り、陳寿の評は素っ気なさ過ぎた感があるようです。