劉劭は魏の法律の制定を主導した人物です。
文章力に優れており、法律や人物、音楽に関する著作をしました。
また、軍事や外交にも的確な意見を述べており、優れた能力を備えています。
この文章では、そんな劉劭について書いています。
邯鄲に生まれる
劉劭は字を孔才といい、冀州の広平郡邯鄲県の出身です。
建安年間に計吏(会計検査官)となり、報告のために許都に赴きました。
この時、太史(天文や暦法を司る官)が「元旦は日食になります」と上奏します。
劉劭は尚書令である荀彧のところにいましたが、数十人が同席していました。
ある者は日食なら朝礼を廃するべきだと述べ、ある者は会議を取りやめるべきだと述べます。
古代では、日食の時には天子は表に出ないことになっていたからです。
これに対し、劉劭は次のように意見を述べます。
「梓慎、裨竈は古代のすぐれた太史ですが、それでもなお水火の災害を占う際には、天の時を見失うことがありました。
礼記には、諸侯が天子に謁見する際に、門のところまで行っても儀礼を最後まで行わない場合が四つあるとし、日食はその一つになっています。
しかるに、聖人が制度を定めた際に、変異を理由にあらかじめ朝礼を廃することはなかったのです。
災害は消え、変異は伏することもあり、推測は誤っていることがあるからです」
荀彧はこの意見を取り入れ、いつもどおりに元旦の朝会を実施するようにと命じました。
すると日食は起こらず、劉劭の言葉の通りになりました。
不確かな予測に基づき、儀礼を中止するのはよくない、というのが劉劭の意見だったのです。
一方では、晋の時代に、日食の際には天子は政治に関わらないことになっているのだから、太史が予測を誤る可能性があっても、朝会は中止しておくべきだ、と劉劭の意見への批判もなされています。
立身する
その後、劉劭は御史大夫(行政副長官)の郗慮に招かれますが、やがて郗慮は免官となります。
その後、太子舎人となり、秘書郎に転任となりました。
魏が建国され、黄初年間になると尚書郎(政務官)と散騎侍郎になり、地位が高まっていきます。
この時、詔を受けて五経の書物を収集し、分類整理をして『皇覧』を編纂しました。
やがて曹叡が即位すると、外に出て陳留太守になります。
そして熱心に教育に取り組み、民から称賛を受けました。
法律を制定し、公孫淵の討伐に意見を述べる
やがて中央に戻って騎都尉となり、議郎の庾嶷や荀詵らとともに法律を制定し、「新律」十八篇を作り、「律略論」を著しました。
そして散騎常侍(皇帝の側近)に転任しています。
このころ、遼東の公孫淵が、孫権から燕王の号を受けたことが明らかになりました。
公孫淵は魏に臣従していたのですが、これは明確な裏切り行為となります。
このため、議論をする者たちは、公孫淵が送ってきている計吏を抑留し、兵を派遣して討伐するべきだと主張しました。
劉劭はこれについて意見を述べます。
「その昔、袁尚の兄弟は公孫淵の父の公孫康を頼ると、公孫康はその首を斬り、こちらに送ってよこしました。
これは公孫淵の先代が忠を尽くしたのだと言えます。
また聞くところでは、事の虚実はいまだはっきりとしていません。
古代では、要・荒のような服従しない土地があると、徳をおさめて征伐せず、民に重い負担をかけることを避けました。
寛大な措置を取り、自らを改めるようにと働きかけるべきです」
すると後に、公孫淵は孫権の使者である張彌らの首を斬り、魏に送ってよこしました。
これによっていったんは公孫淵の動きは収まっています。
風刺の賦を作る
劉劭は「趙都の賦(韻文)」を作ったことがあり、曹叡から称賛を受けたことがありました。
そして詔によって、許都と洛陽の賦も作るようにと命じられます。
このころ、外に向けて軍勢が動員され、内側では宮殿の造営が行われ、財政が放漫になっていました。
このため、劉劭が作った二つの賦には、どちらも風刺と諫言がこめられています。
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呉への対応に意見を述べる
青龍年間(233〜237年)に、呉が合肥を包囲してきたことがありました。
この時、東方の役人や兵士はみな、交代しつつ休暇を取っています。
このため、征東将軍の満寵は、中央の軍兵の派遣を要請し、合わせて休暇中の将士を呼び戻し、集結を待ってから敵を撃破したいと申し出ました。
劉劭はこれに対して意見を述べます。
「賊の軍勢は新たに到着したところなので、戦いに集中しており、気勢は鋭いものがあります。
満寵は少ない軍勢で、こちらの領地で戦います。
もしもすぐに進撃しても、必ず戦いを制することができるかはわかりません。
満寵は増援が来るのを待っていますが、これが損失を招くとは言い切れないでしょう。
先遣隊として、五千の歩兵と、精鋭の騎兵三千を派遣するのがよいと考えます。
軍勢が出発したら、声を張り上げて道を進み、力のある形勢を示します。
騎兵が合肥に到着したら、部隊を拡散し、たくさんの旗を立て、大皷を鳴らし、城下に勢威を表します。
こうして賊軍を引き出した後、その帰路を断つように見せかけ、糧道を攻撃します。
賊は大軍が来たと聞き、騎兵に後方を立たれようとしていると知れば、必ず恐れを抱いて遁走し、戦わずして自ずから賊を破ることができます」
曹叡はこの策を承認し、実行に移させました。
兵が合肥に到着したころには、呉軍は果たして退却していました。
このようにして、劉劭は軍事についても的確な意見を出せる見識を備えていたのでした。
同僚が賛辞を送る
ある時、広く賢者を求めるとの詔が出されました。
すると散騎常侍の夏侯恵(夏侯淵の子)が劉劭を推薦します。
この時に劉劭は「深い思考力を持ち、篤実で堅固だ」「聡明で微細なことにも通じている」と大変に称賛されています。
これに対し、三国志に注釈をつけた裴松之は「褒め過ぎであり、仲間内の称賛は公平なものにはならない」と批判しています。
役人の査定の規定を作る
景初年間(237〜239年)になると、詔を受け『都官考課』を作りました。
そして上奏します。
「百官の査定は、王の政治において重要なものです。
しかしながら、歴代の政府は努力を払わず、政治の法典には欠陥があり、いまだ補われておらず、有能な者とそうでない者が混在する状態になっています。
陛下は優れた聖人が備える広大な計画として、王政の綱紀が緩むことを憂えられ、深慮を内なる鏡となし、輝かしい詔を外に発せられました。
臣は恩をたてまつり、心が広やかになり、目を開くことができました。
すなわち、『都官考課』七十二条を作り、また『説略』一篇も作りました。
臣は学が乏しく、知識が浅いので、誠に聖旨を称揚し、法典を著し、制度を定めるには力が不足しています」
また、礼儀の制度を定め、音楽を作り、それによって風俗を改めようとしました。
このため『楽論』十四篇を著作しましたが、完成したものの、献上する前に曹叡が亡くなったので、実施はされませんでした。
やがて亡くなる
劉劭は正始年間(240〜249年)に経学を講じ、関内侯の爵位を与えられます。
また、『法論』『人物志』などを著述し、それらの書は百篇ほどありました。
やがて亡くなり、光禄勲を追贈されています。
子の劉琳が後を継ぎました。
劉劭評
三国志の著者・陳寿は「劉劭は学問の書を広く読み、文章力と実質があまねく備わっていた」と評しています。
劉劭は文章を書くのと、論じるのが得意なだけでなく、政治や法律、軍事についても的確な意見を述べることができ、優れた知性の持ち主だったと言えます。