董卓 後漢の実権を掌握するも、呂布に殺害された暴君の生涯

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董卓は後漢の末期において、辺境の兵を率いて洛陽らくように乗り込み、実権を掌握した人物です。

その後、彼が3年に渡って暴政を行ったことで、後漢王朝の権威は地に墜ち、やがて魏に取ってかわられることになります。

その結果、董卓は暴君の代表的な人物として歴史に名を残すことになりました。

この文章では、そんな董卓の生涯を書いてみます。

董卓

【董卓の肖像画】

涼州に生まれる

董卓の生年は不明ですが、涼州の出身で、董君雅とうくんがを父として生まれたことがわかっています。

字は仲穎ちゅうえいといいます。

父・董君雅は小役人の身分でしたが、やがて県の「」という、警察や軍事を司る地位にまで出世しました。

董卓はその次男で、長男は早世しています。

弟に董旻とうびんがおり、彼は後に董卓の補佐役になりました。

董卓が生まれ育った涼州は、後漢の西の果てにあり、異民族と境を接する地域です。

そこで董卓は若い頃、弓や剣の腕を磨きつつ、異民族と交流する日々を過ごしていました。

若き日の董卓

董卓は生まれつき武芸に秀でており、腕力が強く、特に騎射を得意としていました。

董卓は二つの弓袋を身につけ、馬を走らせながら、左右のどちらにも矢を放つことができる、という特技を持っています。

騎射は騎馬民族が得意とした技能ですので、彼らと交わることの多かった董卓は、その技を教えてもらっていたのかもしれません。

董卓はきょう族という異民族が支配する地を旅し、多くの顔役たちと交友しました。

放浪を終えた後、董卓は郷里に帰って農耕で生計を立てていましたが、羌族の者たちが訪ねてくると家につれて帰り、牛を屠って宴会を催し、盛大にもてなしました。

顔役たちはこれに感激し、千頭もの家畜を集めて董卓に贈っています。

こうして董卓は交歓と贈与によって、涼州に地歩を築いていったのでした。

胡を討伐する

ある日、涼州に(異民族)が侵入し、略奪を働いて住民を連れ去る、という事件が発生します。

すると涼州の刺史(長官)の成就せいしゅうは、かねてより武名の評判を聞いていた董卓を召喚します。

そして騎兵隊長に任命し、胡の討伐を命じました。

董卓はこの戦いに勝利し、胡を千人以上も倒し、あるいは捕縛して凱旋するという手柄を立てています。

これがきっかけとなり、董卓は推薦を受けて司徒しとの属官になりました。

司徒は後漢の大臣の地位でしたので、董卓は出世の糸口をつかんだのだと言えます。

董卓はこの時期、胡や羌族と百回以上も戦ったと言われており、辺境で武功を重ねることで、世の注目を集めるようになったのでした。

順調に出世を重ねる

この頃の後漢は各地で異民族との抗争が多発しており、董卓はやがて中郎将(軍司令官)の張奐に従い、并洲へいしゅう匈奴きょうどという異民族の討伐に参加します。

董卓はこの戦いでも武功を立て、郎中ろうちゅう(中級指揮官)に任命され、絹九千疋の報償を与えられました。

董卓はそれをすべて部下に分け与えており、気前のいいところを見せています。

羌族を歓待したことからもうかがえますが、董卓は人に大きな贈り物をすれば、いずれそれがもっと大きくなって自分のところに返ってくるという、贈与の原理を理解していたようです。

その後、広武令、蜀郡北部都尉といなどを歴任し、やがて并州刺史・河東かとう太守という、一州を任されるほどの地位を得ています。

そして中郎将にも任じられ、にわかに勃興してきた黄巾賊の討伐を命じられました。

免職となるも、再び涼州で活躍する

しかし董卓は黄巾賊の討伐には失敗し、免職となります。

黄巾賊は太平道という新興宗教を媒介として結束した、多数の農民を主体とする軍勢でした。

ですので、騎馬戦力を主体として立ち向かってくる異民族と戦うのとは勝手が違ったのでしょう。

こうして董卓の出世の道は絶たれたかに見えましたが、涼州で韓遂かんすいが反乱を起こしたため、再び中郎将に任命され、鎮圧に赴くことになります。

辺境での変事の多さが、董卓の能力を必要とさせたのでした。

計略を用いて危機を乗り切る

董卓はこの時、車騎しゃき将軍・張温の元で一軍を率いて戦いました。

そして流星に不吉を感じて撤退する韓遂軍を追撃し、大いに討ち破ることに成功します。

その後、張温に命じられてさらに西進し、羌族の攻撃を防ぐ役割を担います。

しかしやがて、董卓軍は数万の羌族に包囲され、壊滅の危機に陥りました。

そして糧食が欠乏すると、董卓は魚を捕獲するふりをして敵の目をごまかしつつ、密かに自軍を後退させはじめました。

そして川をせき止めて大きな池を作り、水を貯めさせます。

自軍には築いた堤の下を通過させて撤退させ、その後で堤を切って周囲一帯に水をあふれさせました。

羌族が董卓の撤退に気づいて追撃しようとしますが、川があふれて道がとだえ、果たすことができません。

こうして董卓は危機を切り抜けて帰還しましたが、全部で六個師団だった官軍は、董卓軍を除いてみな壊滅してしまいます。

この結果、董卓の存在価値が大きくなり、前将軍に取り立てられ、さらに并州のぼく(刺史と同等の地位)にも任命されています。

こうして董卓は勝利こそしなかったものの、生き延びたことによって、さらなる出世を遂げたのでした。

このように、辺境で活躍して終わっていれば、董卓は気前がよく、異民族との戦いで優れた功績を残した将軍として歴史に名を残すことになったでしょう。

しかし後漢は衰退期に入っており、そこから発生した混乱が董卓の野心を焚きつけ、暴君として名をなさしめることにつながっていきます。

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