呂布を寝返らせる
王允は尚書僕射(財務等の次官)の士孫瑞や、董卓の将軍である呂布と共謀し、董卓の暗殺を計画します。
呂布が董卓の殺害に加担したのは、董卓の侍女と密通していたのが原因だとされています。
呂布はそれが発覚して董卓に処罰されるのを怖れ、王允に相談しました。
すると董卓の打倒を計画していた王允はこれを好機と捉え、董卓を討つ計画に参加するようにと促します。
呂布にとっては密通の問題をうやむやにし、董卓退治の功績によって出世するチャンスでもありましたので、王允の勧誘に同意しました。
この時の侍女の名前は不明ですが、『三国志演義』では貂蝉という名を与え、絶世の美女だったとして物語を創作しています。
計画の実行
董卓の暗殺計画は、192年4月に実行されました。
この時に献帝の病が快癒し、そのお祝いとして宮殿に多数の臣下が列席します。
そこに董卓も招かれており、王允らはこの機に暗殺を決行することにしました。
董卓は騎兵や歩兵を陣営から宮殿まで並べて通行を安全にしましたが、馬がつまづいて先に進もうとしません。
このために董卓は参内を取りやめようと思いますが、呂布が是非行くようにと勧めたため、衣服の下に鎧をつけて宮殿の門に到着します。
呂布はあらかじめ、同郷の武官である李粛に命じ、手兵を宮殿の警備兵と入れ替わらせ、門を固めていました。
そして董卓が到着すると、李粛たちは董卓が宮殿に入るのを阻みます。
董卓はこれに驚き、「呂布はどこだ!」と呼ばわると、呂布は懐に入れていた董卓の誅殺を許可する献帝の詔を取り出し、「詔だ!」と声を発して董卓を殺害しました。
董卓は屈強で、服の下に鎧も着込んでいましたが、呂布の力の前には問題にならなかったようです。
こうして董卓は配下の将軍の裏切りによって、あえなく死を迎えたのでした。
この日、太陽や月は清浄に輝き、そよ風すらも吹かなかったと言われています。
長安の人士や民衆は董卓の死を知ると、みな互いに慶賀して喜び合い、董卓に従っていた者たちは、みな獄につながれました。
一族も誅殺される
董卓が殺害されると、弟の董旻をはじめ、郿に滞在していた一族の者たちも、ことごとく殺害されています。
これには董卓の90才になる老母も含まれていました。
董卓はこれより先に、自分に刃向かった袁紹の一族を皆殺しにしていました。
このために董卓が死ぬと、袁氏に世話になっていた食客や官吏たちが集結し、董卓一族の死骸に火をつけて焼き払い、復讐を果たしています。
こうして董卓とその一族は、完全に滅ぼされたのでした。
灯火が燃え続ける
董卓の屍は市場にさらされましたが、非常に肥満していたため、やがて体から油がしみ出し、地面や草が変色したと言われています。
董卓の死骸を見張っていた役人は、日が暮れると灯芯を作り、董卓のへその中に入れて灯火をつけましたが、油がつきて燃えなくなるまでには、何日もかかったということです。
なお、董卓の遺灰は配下の兵士だった者が回収し、棺に納めてから郿に葬っています。
董卓は天下にとっては大悪人でしたが、配下の兵士にとっては、恩人としての面も持っていたのでしょう。
その後も天下は鎮まらず
こうして董卓を討つことはできたものの、その残党はいまだ健在であり、彼らは李確や郭汜を中心として10万の兵を集めました。
そして李確らは参謀の賈詡の献策に従って長安を攻め、呂布を打ち破って占拠します。
すると今度は董卓暗殺に加担した者たちが皆殺しにされ、首謀者の王允は屍を市場にさらされることになりました。
董卓の時とは反対に、人々は王允の死を知ると涙を流して悲しみます。
呂布は戦いに敗れて逃走する際に、王允も伴おうとしたのですが、王允は「国家を安定させるのがわしの最大の願いだ。もしもそれがかなわぬのなら、この身を捧げて死ぬまでのことだ。朝廷や幼い主君がわしだけを頼りにしているのに、どうして逃げることができよう。どうか関東の諸侯によろしく伝え、国家を忘れぬようにと伝えてくれ」と言い、そのまま長安にとどまったのでした。
そして李確らに殺害されたのですが、この王允の死をもって、実質的に後漢は終わったのだと言えるかもしれません。
王允と同じ志を持っていた人物に荀彧がいますが、彼は後漢の継続を願ったために曹操と仲違いをし、最後は自害に追い込まれています。
もはや能力と気概のある人物たちですらも後漢を支えきれなくなっていたわけですが、それが王朝というものが寿命を迎えたことを示す現象なのでしょう。
李確らも破壊を続ける
こうして李確や郭汜ら、董卓の部下たちが再び朝廷を牛耳りますが、彼らは董卓以上に政治がわからない者たちでしたので、長安はますます衰退を続け、ついにはほとんどの住人が死に絶える、凄惨な状況になってしまいました。
そして李確と郭汜は仲違いをして争いあうようになり、献帝は秩序が完全に崩壊した長安を脱出し、洛陽に戻ります。
それを曹操が迎えて庇護し、許に新たに都を築きました。
ついで曹操は内部抗争によって弱体化した李確らを討ち、ようやく董卓が起こした動乱を鎮めています。
しかし、董卓とその一党による破壊の惨禍と、人的な損失を補うことはできず、後漢はその後、立ち直ることなく魏に政権を奪われました。
当人はまるで想定していなかったでしょうが、董卓は後漢の衰退を決定づけ、曹氏や司馬氏が新たな王朝を開く機会を作った人物なのだとも言えます。
董卓評
三国志を記した陳寿は、董卓を「心がねじ曲がっており、残忍で、暴虐非道であった。記録に遺されている限り、おそらくこれほどの人間はいないだろう」と評しています。
中国の歴史の中では、中央に混乱が発生すると、地方で軍閥を形成して権力の奪取をもくろむ者が現れますが、董卓もそういった人物の一人なのだと言えます。
そして彼らはたいてい、野心こそ強いものの、統治のなんたるかを知らぬため、権力を維持することができず、不幸な最期を迎えることになります。
董卓も結局は自身だけでなく、一族もろともに滅ぼされることになったわけで、身にそぐわない権力を望んだことで、かえって全てをだいなしにすることになったのでした。
董卓は死ぬ前に大勢の罪もない人を殺害し、財産を奪っていましたので、まさしく自業自得だったと言えるでしょう。
このような経緯から、董卓は三国志の知名度もあって、暴君の代表的な存在として広く名を知られることになりました。