召喚を拒んで軍勢を手元に残す
188年になると、朝廷は董卓に「軍勢を左将軍の皇甫嵩に預けるように」と勅命を下します。
しかし自分の意のままに動かせる軍勢を手元に残しておきたい董卓は、辺境の騒乱が続いていることを理由にこれを拒否しました。
董卓は「涼州は騒乱状態にあり、敵は根絶されていません。私はこの事態に奮い立ち、命をかけて貢献したいと思っています。また、兵士たちが私の施した恩義に対して報恩を誓い、私が帰還するのを妨げるので出発できないでいます」と上奏文を送っています。
翌189年になると、もう一度同じ命令が下されるのですが、董卓はこの時も同様の理由を述べて拒否し、勢力の維持をはかりました。
当時の後漢の中枢は、宦官と軍人たちの間で抗争が発生しており、統治力が衰えてきていました。
そういった情勢になると、手元に多くの私兵を抱えた者が有利な地位を占めることができますので、董卓は何がなんでも軍勢を手放したくなかったのでしょう。
こうして董卓が粘るうちに、大将軍である何進が宦官たちを抹殺しようとする計画を立て、その支援のため、董卓に洛陽に軍勢を率いてやってくるようにと命じました。
こうして董卓は堂々と、自らに忠誠を誓う軍勢を率いて、都に乗り込むことになったのでした。
何進と宦官の抗争
何進はもともとは屠殺業を営んでいた男でしたが、異母妹が皇帝の夫人になって皇子を産んだことで、高い身分に成り上がっていました。
そして黄巾の乱が発生すると、武官の最上位である大将軍の地位を手に入れています。
何進は都の警備にあたって前線には出なかったのですが、皇甫嵩や盧植、朱儁らの将軍たちが活躍し、乱は鎮圧されました。
しかしその後、宦官たちが自らの権力を強化するため、国軍を監督する地位を創設して就任し、何進らを目下として扱うようになります。
宦官は去勢して皇帝の側近くに使え、雑用をこなす者たちでしたが、この時代になると皇帝に取り入って大きな権力を与えられており、それが官僚や軍人たちとの軋轢を生んでいました。
その宦官の下風に置かれることを何進らが好むはずがなく、軍の幹部を中心として、宦官を排斥しようとする動きが発生しました。
そして、この頃から司隷校尉の地位にあった袁紹が何進に与し、宦官を討つようにとしきりに進言しています。
(司隷校尉は都の守備と行政を司る官位です)
その後、何進の妹が産んだ劉弁が皇帝になったことで、何進の勢力が強まりました。
宦官たちはこの事態を受け、何進と妥協して勢力を維持しようとしますが、袁紹が宦官の排除を強く主張したため、何進も乗り気になっていきます。
そして曹操や廬植らの反対を押し切り、董卓ら地方に駐屯する将軍たちに、軍勢を率いて洛陽に向かうようにと命じたのでした。
何進が地方軍を用いようとしたのは、都を警備する兵士たちには宦官の勢力を怖れる者が多く、討伐に用いるのには不安があったからです。
いずれにせよ、この命令が董卓に中央の権力を牛耳させる結果をもたらすとは、何進はまるで予想していなかったことでしょう。
何進の暗殺と宦官の逃走
このような情勢であったため、袁紹は何進に対し、宦官たちの根城である宮中には入らないようにと忠告していました。
しかし何進はやがて宮中に参内し、そこで宦官の率いる兵に取り囲まれ、殺害されてしまいます。
そして宦官たちは偽の命令書を出して軍を掌握しようとしますが、何進は部下の面倒見がよかったため、軍の反発を受け、狙いとは反対に攻撃を受ける状況になりました。
そして袁紹ら何進に与していた者たちは、これを機に決起し、宮中に乱入して宦官たちを殺戮しました。
このため、追い詰められた宦官の残党は、少帝・劉弁と弟の劉協の身柄を奪い、洛陽から逃走します。
洛陽に向かっていた董卓は、それを黄河のほとりにある小平津というところで捕捉し、宦官たちを殺害して皇帝の身柄を確保しました。
他にも多くの軍勢が動いていたのですが、董卓が皇帝を手中に収めることができたのは、まったくの幸運だったと言えます。
こうして宝物が転がりこんできたことに董卓は興奮し、これは天下を自分の手中に収める絶好の機会だ、と判断したことでしょう。
そして洛陽の周辺に展開する他の軍勢を取り込むことで、朝廷の支配権を獲得しようと画策し始めます。
こうして董卓は辺境の将軍から中央の権力者への道を歩み始めるのですが、果たしてこれが本当に幸運だったのかどうか、結末から顧みると、一考の価値があると思われます。
何氏の軍勢を掌握する
暗殺された何進には何苗という弟がおり、こちらも車騎将軍という高い地位についていました。
そして何進亡き後は、都を守る軍の多くを掌握しています。
董卓はこの何苗から軍を奪うことを計画し、弟の董旻に策を実行させます。
何進の部下に呉匡という者がいましたが、かねてより、何苗が宦官に妥協的な姿勢を取っていることを憎んでいました。
ですので、何進が暗殺されると、何苗が加担したのではないかと疑い、これを董旻が焚きつけたことで、本当のことだと思い込みます。
そして呉匡と董旻は協力して何苗を攻撃し、討ち取りました。
こうして何進と何苗が死亡したことで、何氏の指揮下にあった軍は主を失いましたが、董卓が抜け目なく彼らを取り込むことで、軍事力を大幅に増強しています。
董卓は軍を掌握することにかけては並々ならぬ手腕を持っており、それが彼の出世につながっていきました。
長年の軍隊経験によって、兵士や指揮官たちをなつかせるための手管を知りつくしていたのでしょう。
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