董卓 後漢の実権を掌握するも、呂布に殺害された暴君の生涯

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呂布を取り込み、丁原を討つ

董卓にとって残る邪魔者は、執金吾しつきんごの地位にあった丁原ていげんのみとなりました。

丁原は董卓とほぼ同じ経歴の持ち主で、武勇に優れ、騎射を得意とし、并州刺史を務めて異民族と戦っていた将軍です。

彼もまた今回の騒乱に際し、何進に召喚されて洛陽にやってきていたのでした。

そして執金吾という都の警備長官の地位を得ています。

彼の部下には後に「国士無双」と呼ばれる呂布がおり、董卓にとっては侮れない相手でした。

しかし策謀には董卓の方が長けており、呂布を寝返らせて丁原を葬ることにします。

呂布はあっさりと董卓の誘いに乗り、丁原を殺害しました。

そして董卓が丁原の軍をも取り込んだ結果、洛陽の周辺に帯陣する軍は、みな董卓の息のかかった者ばかり、という状況になります。

董卓は策を用い、軍の取り込みを得意とする才能を活かし、短期間で後漢の中枢を乗っ取ることに成功したのでした。

董卓への危惧

こうして董卓は強大な権力を握る存在になりましたが、こうなる前に、鮑信ほうしんという武官は董卓のことを警戒していました。

鮑信は袁紹に対し、「董卓は強力な軍を擁し、異心を抱いています。手を打たなければ、将来は彼に都を制圧されてしまうことでしょう。辺境から到着したばかりで疲弊しているいまのうちに、彼を討ってしまうべきです」と進言します。

しかし袁紹は董卓を怖れて攻撃を決断しなかったので、鮑信はそのまま郷里に帰っています。

この逸話に見られる通り、董卓が軍勢を手放さなかった時点で、見る目のある人々には、彼が野心を抱いていることがわかっていたのでしょう。

そしてこの逸話の中で、袁紹の優柔不断な性格も顔をのぞかせています。

皇帝を取り替え、何氏を排除する

こうして軍事力によって都を制圧した董卓は、その圧力をもって自らの地位を高めます。

まず、三公のひとつである司空しくうの地位を得ると、ついで国家の軍権を司る太尉たいいに就任しました。

ここまではまだ朝廷の人々にとっても許容範囲だったかもしれませんが、董卓は皇帝を廃位し、そして後に殺害するという暴挙に及び、人心を失います。

この時の皇帝はすでに触れている通り、何進の妹・何太后が産んだ劉弁でしたが、董卓は周囲の反対を押し切って廃位し、弘農こうのう王という身分に落としました。

それだけではなく、弘農王と何太后を親子ともに殺害しています。

董卓は「少帝は魯鈍で皇帝にふさわしくないから廃位する」と理由を述べたのですが、それだけであれば母親とともに殺害までする必要はありません。

おそらくは、それまで朝廷で大きな権力を握っていた何氏の勢力を排除することで、自らの権力を強めるのが目的だったのでしょう。

その証拠に、先に殺害して兵を奪った何苗の墓を暴き、死体を切り刻んでさらし者にし、さらには何苗の母・舞陽ぶよう君をも殺害しています。

このように、董卓は何氏に対して執拗なまでに攻撃を行い、その実力を完全に喪失させたのでした。

こうして臣下によって皇帝が廃位され、その親族もろともに殺害されてしまったことから、後漢王朝の権威は地に堕ち、その衰退が進行することになります。

位人臣を極める

董卓は自身の権力欲を満たすことを目的として行動しており、乱れた政治を立て直そう、といった抱負は持っていませんでした。

新たに少帝の弟・劉協を皇帝(献帝)の地位につけると、董卓は相国しょうこくという最高職に就任します。

相国は現代の首相にあたる地位で、漢では建国の功臣である蕭何しょうか曹参そうさんだけが就任していた、非常に名誉のある職でした。

そして候という爵位を得て、皇帝に拝謁する際に名を告げず、剣を身につけたままでいられるという特権も与えられました。

既に母親が亡くなっており、幼く、支えてくれる親族も乏しい献帝は董卓の言いなりになるしかなく、董卓はそれを利用して、国家の財産を私物化することまでしています。

董卓はこの幼帝を、自分に高い地位と財産をもたらすための、都合のいい道具として扱ったのでした。

こうして董卓は辺境の将軍から、短期間でのし上がって位人臣を極めますが、彼は粗暴かつ残忍、そして欲深な性格で、天下を治めていけるような器の持ち主ではありませんでした。

董卓は厳しい刑罰で人々を脅しつけ、わずかな恨みにも必ず報復する執念深さがあったので、人々から怖れられます。

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