董卓 後漢の実権を掌握するも、呂布に殺害された暴君の生涯

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暴虐を働く

ある時、擾龍宗じょうりゅうそうという役人が、言上する用件があったため董卓の邸宅を訪れたことがありました。

この時に擾はうっかり剣をはずすのを忘れて董卓に面会したのですが、董卓はこれをとがめて怒り、彼を叩き殺してしまいました。

この事件を聞いた都の人々は、董卓の行いに震え上がります。

董卓は自分の威光を見せつけようと考えてそうしたようですが、あまりに乱暴だったのでただ怖がられ、あるいは疎まれるだけの結果となりました。

その他にも、軍勢を率いて陽城を訪れた際に、何の罪もない住民たちを殺戮し、その財産を奪い、婦女子をさらってくる、という蛮行を働いています。

そして男たちから切り取った首を車の脇につけて都に戻り、「賊を退治してきたのだ」と言いふらしました。

さらってきた女性たちは、下女や妾として兵士たちに与えています。

その他にも、董卓は宮女や公主(皇族の女性)に暴行を働いたと言われています。

こうした行いは、人々の目の届きにくい辺境であれば見過ごされていたのかもしれませんが、国の中心たる都で受け入れられるはずもなく、皇帝を廃位したことと合わせ、董卓への反発は急速に高まっていきました。

伍孚による暗殺未遂

こうした状況下で、伍孚ごふという気概のある官僚が董卓を誅殺しようと考え、ひとりで実行に移しました。

百官が董卓を怖れて震えあがる中、伍孚は小さな鎧を服の下に身につけ、官服の中に佩刀はいとうを隠し持って董卓に面会します。

伍孚が董卓と話を終えて辞去すると、董卓は門のところまで伍孚を送りました。

伍孚はそこで刀を取り出して董卓を刺そうとしますが、董卓は剛力を持ってそれを押さえ込み、伍孚の企みは失敗に終わります。

董卓が「お前は謀反をするのか!」と伍孚をどなりつけると、伍孚は次のように反論しました。

「おまえは私の主君ではなく、私はおまえの臣下ではない。だからこれは謀反ではない。お前は国家を混乱に陥れ、天子の位を奪い、その罪悪は限りない。だから姦賊を殺しに来たまでだ。お前を市場で車裂きにし、天下に罪を問うことができなかったのが残念だ!」

このように言い残してから、伍孚は董卓に殺害されました。

伍孚の発言は天下の総意のごときものであったのか、この頃から、各地で反董卓の動きが強まっていきます。

山東で反董卓軍が立ち上がる

董卓の暴政が始まると、山東さんとう地方(中国の北東部)の長官に就任していた者たちが軍を興し、連合軍を形成して董卓から都を取り戻そうとします。

これには袁紹を中心として、曹操や劉備、孫堅といった、後に三国志の主役になる面々も参加しています。

その他にも袁術・韓馥かんふく孔伷こうちゅう劉岱りゅうたい・劉表といった、各地の刺史や太守の地位にある者たちが、それぞれ数万の兵を率いて参戦し、大きな勢力となりました。

しかしながら、彼らは連携を欠いており、袁紹の統率力も不足していたため、董卓を圧迫するのみで、都にまで攻め上るほどの勢いはありませんでした。

長安に遷都する

董卓は東の諸侯がこぞって自分に刃向かったのを見て、東部にある洛陽に滞在することに不安を感じるようになります。

このため、本拠の涼州に近く、かつて前漢の都であった長安に遷都することに決め、この方針を会議で発表しました。

しかし長安は、前漢から後漢への移行期に発生した戦乱によって衰微しており、宮殿も破壊されていることから、遷都するにはふさわしくないと官僚たちは反対します。

特に司徒の楊彪ようひょうが積極的に反対の論陣を張りますが、董卓はこれを不快に感じ、理由をつけて彼を罷免してしまいました。

董卓は自分に反対する者は、その意見に理があっても排除する行動をとり続けていたため、政治や行政の能力がある者が、董卓に積極的に協力することはありませんでした。

このあたりも董卓が権力を握っても、それを維持できなかった要因となっています。

こうして反対者を排除した董卓は、長安への遷都を190年2月に決行しました。

この際に董卓は洛陽の宮殿に火をつけ、歴代皇帝の陵墓を暴いて財宝を奪い取っています。

また、部下たちに命じて洛陽の城中も、周辺の地域もことごとく焼き払わせ、人が住めないようにして、住民たちを強制的に長安に移住させました。

そして富豪たちに無実の罪を着せて処刑し、その財産を奪い取るという暴挙にも出ています。

董卓の本質は、巨大な野盗の頭領だったのだと言えるでしょう。

この結果、後漢を建国した光武帝が都に定めて以来、160年に渡って続いた洛陽の繁栄が終焉しています。

董卓はまさしく、後漢の破壊者でした。

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