列侯とは

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列侯れっこうは漢の時代に、皇帝から臣下に与えられた爵位です。

漢では「二十等爵にじっとうしゃく」という、二十階級に分類された爵位の階級制度があったのですが、列侯はその最上位です。

もともとはてつ侯という名前だったのですが、前漢の武帝の名が徹だったので、これを避けて列侯と改名されています。

列侯には封邑ほうゆうが与えられましたので、名誉と実利が得られる爵位でした。

封邑とは、税収を自分のものにできる土地のことを言います。

候の名称と封邑の規模

列侯はそれぞれの、封邑の場所にちなんだ称号で呼ばれました。

功績が大きければ県を、小さければ郷や亭といった行政区画が封邑になりました。

「○○郷候」や「○○亭候」は、封邑の規模が小さめだったことを表しています。

たとえば曹操の腹心である夏侯惇は、最初に高安こうあん郷という土地を封邑として授けられたので、高安郷候と呼ばれています。

その封邑は七百戸だったとされており、税収を得られる戸数によって規模がわかるようになっていました。

その後、夏侯惇は千八百戸を加えられて二千五百戸となっていますが、曹操の将軍の中では最大規模の封邑を与えられています。


【曹操の信頼を受け、厚遇された夏侯惇】

その他には、漢中を支配していた張魯は、曹操に降伏した後で閬中ろうちゅう候に取り立てられ、一万戸という大規模な封邑を与えられています。

これは張魯が、もともと数十万人単位の人口を擁する土地を支配しており、それをそっくり曹操に譲ったために、厚遇を受けることになったのでした。

それに加えて張魯の五人の子供と、重臣の閻圃えんほらもすべて列侯に取り立てられています。

張魯にこのような待遇を与えることで、曹操に降伏すれば高い身分を保てるということを示し、他の敵対勢力の降伏を促そうとする意図があったのだと考えられます。

国と相

このように列侯が封じられた地域は、「○○国」と呼ばれました。

さきほどの例を引くと、張魯が封じられた地域は閬中国と呼ばれ、その土地をしょうが統治することになります。

相は県令や県長などに相当する、地方長官です。

列侯は君主として扱われ、その土地を相が統治して管理し、税収を列侯に納めることになっていました。

曹操は若い頃、済南さいなん国の相になっており、劉備は平原国の相だったことがありました。

いずれもそこから太守や刺史に昇進しており、相は官位を高める上でのキャリアのひとつになっていたのだと言えます。

列侯になる条件

前漢が建国された際に、功績があった者たちが列侯になっています。

劉邦は軍師の張良に大功があったとして、三万戸の封邑を与えようとしたのですが、張良はこれを断り、劉邦と初めて会った場所である、りゅうという街をもらえればそれでけっこうですと答え、一万戸を受けました。


【劉邦から最大級の評価を受けた張良】

これによって張良は留候になっています。

それ以外には内政に能力を発揮し、劉邦に絶えず物資と兵士を送り続けた蕭何しょうかきん侯に封じられ、八千戸を受けています。

このように、まず戦略や戦術を立てた者や、内政で功績のあった者が、多くの封邑を与えられたのでした。

そして劉邦が旗揚げした当初から従ってきた、武将の樊噲はんかいが舞陽候として五千戸を、灌嬰かんえい潁陰えいいん侯として五千戸を与えられています。

前線で戦った将軍たちよりも、彼らが動くための作戦を考案したり、戦いの基盤を作る者こそが重要だというのが、劉邦が示した価値観でした。

その後、漢の統治が安定すると、文官の最高位である丞相じょうしょうになった者や、反乱や異民族の討伐に活躍した者、皇帝の親族である外戚などが列侯の身分を与えられるようになります。

三国志における列侯

三国志においても、著名な人物たちはおおむね列侯になっています。

魏では夏侯惇の他、夏侯淵や曹仁、曹洪といった、曹操に初期から仕えた武将たちや、荀彧や荀攸といった軍師たちもまた、列侯になっています。

蜀では諸葛亮が武郷侯に、張飛が西郷候に、馬超が斄郷りきょう候になるなどしています。

郷候ばかりなのは、蜀は領土が限られていたので、臣下にそれほど多くの土地を与えられなかったからでしょう。

それ以外には、関羽が曹操の元にいた時期に、白馬で戦功を立てて漢寿亭候になっています。

呉では、陸遜が江陵侯になっています。