袁紹 曹操と覇を競うも、官渡で敗れた名門の当主

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董卓が西に逃れ、諸侯の間で争いが始まる

戦いはやがて連合軍に有利となり、孫堅が洛陽に迫りましたが、董卓は不利を悟って都を放棄し、根拠地に近い長安に遷都します。

洛陽は住民が移住させられ、焼き払われたために占拠する価値がなくなり、同盟は解散状態となってしまいました。

こうして朝廷の統制が失われたため、東部に残された連合軍の面々は、他の者の領土を奪おうとして、互いに闘争を開始するようになり、乱世に突入します。

韓馥が公孫瓚の攻撃を受ける

こうした状況下で、韓馥は安平に駐屯していた時に、公孫瓚こうそんさんの攻撃を受けて撃破されました。

勢いを得た公孫瓚は冀州に侵入し、董卓討伐を名目としながら、韓馥を攻撃して冀州を奪おうとします。

このため、戦いが苦手な韓馥は不安にかられるようになりました。

袁紹のしかけたことだった

この頃、逢紀ほうきが袁紹の陣営に加わっていましたが、彼は次のように進言をしていました。

「将軍は董卓討伐という大事に取り組みながらも、物資の補給を他人に頼っておられます。

一州を支配しなければ、身の安全を保つことはできないでしょう」

すると袁紹は「冀州の兵は強力で、我が士卒は飢えに苦しんでいる。なんらかの手を打たなければ、勢力を保てなくなるだろう」と苦境にあることを認めました。

すると逢紀が策を述べます。

「公孫瓚に連絡し、彼が南へ向かい、冀州を攻撃するように仕向けるのがよろしいでしょう。

そうすれば公孫瓚は必ずやってきて、韓馥は恐怖にとらわれます。

この時に使者を送り、利害と禍福を説き聞かせれば、韓馥は冀州をあなたに譲るでしょう。

このようにして機会をとらえ、冀州牧の地位を得るのです」

袁紹はこの提案に従い、公孫瓚に使者を送りました。

つまり韓馥が攻撃を受けたのは、袁紹の差し金だったのです。

韓馥にゆさぶりをかける

この頃、董卓は東方を完全に放棄し、函谷かんこく関を通って長安に入りました。

袁紹は軍を延津えんしんに返して冀州に戻りつつ、韓馥がうろたえているのにつけこむために、高幹こうかん荀諶じゅんしんらを派遣し、韓馥を説得させます。

「公孫瓚は勝ちに乗じて南へ向かい、諸郡はこれに呼応しています。

袁車騎(袁紹)は軍を率いて東に向かっていますが、その意図を推測することは困難です。

ですので私たちはひそかに、将軍(韓馥)のために危惧しています」

荀諶が韓馥を説得する

韓馥が「どうしたらよいのだ」とたずねると、荀諶が答えました。

「公孫瓚はえんや代の軍勢を従え、その鋭鋒には当たりがたいものがあります。

一方、袁氏は一代の英雄であり、将軍(韓馥)の風下に立つことはないでしょう。

冀州は天下にとって重要な資産です。

もしもここで公孫瓚と袁紹の両雄が力を合わせ、城下で将軍と交戦することになりますれば、滅亡の危機にさらされるでしょう。

しかし袁氏は将軍とは旧知の仲である上に、同盟者でもあります。

将軍のために対策を検討しますと、冀州を全て袁氏に譲渡なさるのが、最良の方策だと存じます。

袁氏が冀州を手に入れれば、公孫瓚も争うことができなくなり、袁氏は将軍の徳義に厚く感謝するでしょう。

冀州を親交のある人に贈ることで、将軍は優れた人物に国を譲った賢者だという名声を得られ、その身は泰山のように安泰になります。

願わくば、迷われませぬように」

韓馥は臆病な性質でしたので、この提案を受け入れようとします。

配下の者たちが諫める

これに対し、長史の耿武こうぶ、別駕の閔純びんじゅん、治中の李歴りれきら(いずれも韓馥の側近)が進み出て、韓馥をいさめました。

「冀州は地方であるとは言え、兵は百万、穀物は十年分もあります。

袁紹は孤立無援で軍勢は困窮しており、こちらの鼻息をうかがっています。

言わば膝の上の赤子のようなもので、乳を与えなければ遠からず餓死します。

どうして冀州を彼に与えようとなさるのですか」

このように、状況は韓馥の側が圧倒的に有利でしたので、韓馥の行動は理に適わないものだったのでした。

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