孝廉とは、中国の漢代に設置されていた人材登用の制度です。
地方の人士の中から、優れた者を中央の官吏に任命するために設置されていました。
「孝廉」は「孝行で欲が少なく、正直な人柄」を意味しています。
つまりは儒教の理想にかなう、人格的に秀でた者を登用するために、設けられた制度だったのでした。
登用される人数は人口が基準となっており、20万人につき、年に1人が推挙されることになっていました。
ですので、かなりの狭き門だったのだと言えます。
推挙をするのは、各地方の長官(郡の太守や、侯国の相)です。
初めてこの科目が設けられたのは、紀元前134年、前漢の武帝の時代でした。
後漢では孝廉が重視されるようになる
孝廉以外にも、賢良・方正・直言・文学・計吏・秀才などの科目が存在しており、多様な人材を朝廷に推挙するための仕組みが用意されていました。
これらをまとめて、郷挙里選と呼びます。
やがて後漢の時代になると、特に孝廉が重視されるようになります。
これは前漢が王莽によって、帝位を奪われて滅んだことが原因となっており、そのような不忠な人物を朝廷に入れないようにするために、官吏の人格が強く問われるようになったのでした。
孝廉の実態
太守や相といった実力者が、地方の豪族たちと協議をして推挙する仕組みであったため、その選抜は、必ずしも公正には行われませんでした。
実際に孝廉に推挙されたのは豪族や高官の子弟が多く、有力者たちが、一族の実力を維持するのに用いていた制度なのだと言えます。
孝廉の対象者になるためには、豪族たちの間でよい評判を得る必要があるため、目立とうとして、過剰なまでに自分の孝行ぶりを、他人に見せつける者も現れています。
また、豪族たちの間では、推挙にふさわしい若者の存在を知るために、人物評が流行しており、的確に他人の素質を評価することができる者は、名士としてもてはやされました。
その中でも許子将は特に有名で、曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評したことで知られています。
曹操は許子将に人物評を求めて接近していましたが、それは孝廉に推挙されて朝廷に参画するために、必要なステップだったからだったのでした。
有名な人物鑑定家に認められることが、豪族たちの間に名を広め、高い地位を得るための手段になっていたのです。
このように孝廉では、豪族間の人間関係や、人が人を評するという、主観がまじりやすい仕組みに依存していたため、評価が常に適性になされていたとは限りませんでした。
孝廉に推挙された人物
三国志において、孝廉に推挙されて官吏となった主な人物は、以下になります。
魏の人物
曹操・荀彧・荀攸・鍾繇・賈詡・董昭・華歆・王郎・王凌・張既
呉の人物
孫権・張昭・張紘・黄蓋・朱治
蜀の人物
許靖
その他
袁術・公孫瓚・劉繇・華佗
こうして並べてみますと、魏が一番多く、ついで呉で、蜀にはほとんどいませんでした。
唯一、許靖だけが孝廉の出身でしたが、彼は朝廷に対して人材の推挙を行うほどの名士で、劉備が益州を制圧した際に臣下となった、やや例外的な存在でした。
この人数差から、魏は高官や豪族の子弟が多く集まってできた、言わば既得権益者たちの勢力で、蜀は劉備が無名の人士たちの中から優れた者を見いだし、作り上げていった勢力だったことがわかります。
孝廉の偏重には、人格面が重視されすぎている、という批判もあったのですが、こうして推挙された人物たちを並べてみると、智謀に優れた者が多く、優秀な人材を見いだす手段として機能していたことがうかがえます。
皇帝を名のり、漢にとってかわろうとした袁術や、それを企図していた曹操が入っているのは、おかしいと感じられるところではありますが、彼らは勢力のある家柄の出身でしたので、人格面は十分に考慮されなかったのかもしれません。
【孝廉に推挙された曹操 若い頃は素行が悪かったと言われている】
九品官人法、そして科挙へと変化する
220年に魏が建国されると、九品官人法という制度に変更され、孝廉を含む郷挙里選はなくなりました。
九品官人法は、人脈がものをいい、実力主義になりにくい面があった郷挙里選を改善しようとして、設けられた制度でした。
太守や相から推挙の権利を除き、中正官という人材登用専門の役職を設けることで、公正な登用を実現しようとします。
しかしこちらも、設置されてからしばらく時間が過ぎると、結局は賄賂やコネがものを言うようになり、形骸化していきました。
このため、実力主義によって官吏が採用されるようになるには、純粋に試験の結果のみで評価する、宋代の科挙制度の確立を待つ必要がありました。