荀攸は曹操の軍師として活躍した人物です。
呂布や袁紹との戦いで優れた智謀を示し、曹操が中原を制する上で大いに貢献しました。
自分の功績を誇らない慎ましやかな性格で、その点も曹操から高く評価されています。
一方で、自分のことを語らなすぎたため、立てた策の一部しか伝わっていない人物でもあります。
この文章では、そんな荀攸の生涯を書いています。
潁川に生まれる
荀攸は字を公達といい、荀彧の甥にあたる人物です。
潁川郡潁陰県で、157年に誕生しました。
幼い頃に父を亡くしたため、子供のころは祖父や叔父と暮らしています。
祖父の荀曇は広陵太守で、並外れた才能を持っていると評されたほどの人物でした。
他の親族にも、高官の地位に昇ったものが多数おり、荀氏は栄えていたのだと言えます。
利発な子供だった
荀攸が7才の時、叔父の荀衢が酔っ払い、誤って荀攸の耳を傷つけてしまったことがありました。
すると荀攸はいつもその耳を隠し、傷跡が荀衢の目に入り、気に病ませることがないように努めます。
このために荀衢は、荀攸の耳に傷跡が残っていることを、何年も気がつきませんでした。
荀攸はこのように、優しい性格の持ち主だったのでした。
逃亡犯の正体を見抜く
その他にも、次のような挿話があります。
荀攸が13才の時に祖父の荀曇が亡くなりましたが、すると元部下の張権が、その墓守をしたいと願い出てきます。
荀攸は張権の行動は不自然だと思い、荀衢に「あの者にはただならない様子があります。きっと悪い事をしたのでしょう」と告げました。
そこで荀衢が張権の身元を洗わせてみると、果たして殺人を犯し、逃亡していたことが判明します。
荀攸は優しいだけでなく、聡明でもあり、荀衢は荀攸にますます一目を置くようになっていきました。
官職を得る
荀攸が成人したころ、朝廷では皇帝・弁の叔父である何進が権力を握っていました。
何進はやがて、自分の勢力を強化するため、各地から二十人の名士を招きます。
この中に荀攸が含まれており、招きに応じたことで、黄門侍郎の地位を与えられました。
これは皇帝の勅命を諸官に伝達する、側近の役目です。
こうして荀攸は官僚としての道を歩み始めたのですが、間もなく戦乱の渦中に巻き込まれることになります。
董卓が台頭し、長安に遷都する
荀攸は単に賢いだけでなく、剛気なところも備えていました。
189年に、何進が宦官たちとの権力争いの中で暗殺されると、やがて董卓が台頭し、朝廷を支配するようになります。
董卓は横暴な政治を行ったので、人心が離れ、世が乱れていきました。
すると関東で、袁紹や曹操ら諸侯たちが、董卓を討伐しようと連合軍を結成しました。
董卓はその圧力から逃れるため、西の長安に遷都します。
董卓の誅殺を計画する
この際に、董卓は荀攸が仕えていた弁を暗殺して皇帝を取り替え、都の洛陽を略奪して放火し、歴代の皇帝の墓を暴いて財宝を奪うなど、様々な悪事を働きました。
このために荀攸は、国家の中枢に巣くう悪を取り除こうと、数名の官僚たちと謀議し、董卓の誅殺を計画します。
「董卓の無道は、桀・紂(古代の暴君)よりもはなはだしく、天下の人々の怨みを買っている。
強力な軍隊を持っているといっても、彼自身はただひとりの男であるに過ぎない。
いま、ただちにこれを討ち、人々に謝罪し、要害を頼りに皇帝をお助けし、天下に号令しよう。
我々は斉の桓公・晋の文公の行動をたどらなければならない」というのが荀攸の主張でした。
計画が漏れるも、処刑されず
しかし、この計画は実行の直前に露見し、荀攸たちは逮捕されてしまいます。
荀攸の仲間の何顒は、心配と恐怖にかられ、獄中で自殺しました。
一方、荀攸は遠からず処刑される状況に置かれながら、言葉づかいが乱れず、食事をする時も泰然としていました。
すると、王允が呂布とともに董卓を誅殺したため、荀攸は処刑されずにすんでいます。
この時、董卓の命を狙っていたのは、荀攸たちだけではなかったのでした。
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