荀攸 曹操を中原の覇者に押し立てた名軍師の生涯

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呂布への水攻めを進言する

曹操は徐州に乗り込むと、三度の戦いでいずれも勝利し、呂布を本拠の下邳かひに追いつめます。

曹操は下邳を包囲して攻め立てますが、守りが堅く、なかなか攻め落とすことができません。

すると、長く続いた戦闘によって将兵の疲労が濃くなって来たため、曹操は撤退を考え始めます。

この時に荀攸は、郭嘉かくかとともに曹操に進言をしました。

「呂布は勇猛ですが智謀がなく、連敗したことによって気力が萎えています。

その影響で、呂布軍は士気が上がらなくなっており、いまこそが下邳を攻め落とす好機です。

敵の軍師である陳宮は、知恵はあるものの決断が遅く、有効な策を講じることができていません。

呂布の気力が萎えたままで、陳宮が計略を思いつかないうちに厳しく攻め立てれば、下邳を攻め落とすことが可能です」

そして、具体的には淮水と泗水の水を引いて城に注ぎ入れ、水攻めにして呂布を追いつめる策を提案しました。

曹操がこれを実行に移すと、果たして水流によって城壁が破壊され、呂布は抗戦をあきらめて降伏します。

こうして荀攸は遠征の意志決定から、最後の詰めとなる攻城戦において、的確な意見を提示し、呂布を滅亡に追い込んだのでした。

これによって曹操は兗州に続き、徐州をも支配下に置き、勢力を大きく拡大します。

荀攸は各勢力が置かれた状況と、それを構成する主要な人物たちの性格を、つぶさに把握していました。

常に情報収集を怠らず、入念に分析をしていたのでしょう。

それに基づいて策を立てて提案をしたので、失策を犯すことがなかったのです。

袁紹との戦い

荀攸は引き続き、袁紹との戦いでも軍師として活躍しています。

200年の2月になると、袁紹は顔良がんりょうらを派遣し、白馬にある曹操の陣営を攻撃してきました。

そして袁紹自身は、大軍を率いて黎陽れきようから黄河を渡ろうとします。

この状況を見ると、荀攸は曹操に進言をしました。

「こちらの方が兵力で劣っていますので、敵を分散させて対処いたしましょう。

公(曹操)は延津えんしんに向かい、兵に渡河をさせ、敵の背後をつく構えを見せてください。

袁紹はそれに対応するため、西に兵を差し向けるでしょう。

そうして数を減らしてから、軽装の精鋭を白馬に急行させ、油断している敵を攻撃すれば、顔良を生け捕りにすることができます」

曹操はこの策に従い、延津から兵を渡河させると、荀攸が予想した通り、袁紹は兵を割いて西に向かわせました。

こうして袁紹軍を白馬から遠ざけると、曹操は精鋭のみを率い、通常の倍の速度で白馬に急行します。

そして白馬の手前に到着すると、顔良は曹操軍の勢いに驚きつつ、慌てて兵を展開して迎撃してきました。

曹操はこれに対し、最も突破力のある関羽と張遼を、先陣にして出撃させます。

すると関羽は顔良の軍勢をけちらして斬り込み、敵のまっただ中で顔良その人を討ち、首を取って戻ってきました。

こうして荀攸の策と関羽の武勇が合わさり、曹操は白馬で大勝利を収めたのでした。

文醜を討ち取る

曹操は白馬の危機を救うと、本陣への帰路につきます。

そして輸送隊を出発させ、黄河にそって西に向かいました。

これを知った袁紹は、黄河を渡って曹操の後を追ったので、両軍は不意に遭遇します。

袁紹軍は大軍だったので、曹操の諸将はこれを怖れ、引き返して陣営を守ることを勧めました。

そんな中、荀攸だけが「輸送隊は敵を捕らえる餌として活用できます。どうして引きあげる必要がありましょう」と、戦うことを主張します。

曹操は荀攸の言葉の意図を読み取り、目配せをして笑いかけました。

曹操は敵が迫ってくるのを泰然と待ち受けると、輸送隊をおとりにして敵の一部を釣り出します。

すると文醜ぶんしゅうと劉備が率いる五、六千の騎兵隊は足並みを乱し、争って曹操軍の物資を奪おうとしました。

これを見た曹操は、歩兵と騎兵を率いて攻撃をしかけ、兵を分散させてしまった文醜に集中攻撃をしかけ、討ち取ります。

顔良と文醜は名将として知られていましたが、彼らを続けざまに討ち取られたことで、袁紹軍の士気は大きく低下しました。

この戦果をあげる上で、荀攸の策が大いに貢献したのでした。

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