曹真は字を子丹といい、曹操の甥です。
父の曹邵は忠誠心と才能を備えていたために、曹操から信任されていました。
やがて曹操が挙兵すると、曹邵は徒党を募ってつき従い、活躍します。
しかし豫州刺史の黃琬が曹操を敵視し、殺害しようとしました。
曹操は難を逃れましたが、この時に曹邵は巻き込まれ、ひとり殺害されてしまっています。
曹操の子どもたちと一緒に育つ
曹操は曹真が幼くして父を失ったことを憐れみ、自分の子どもたちと一緒に養育し、曹丕と起居をともにさせました。
やがて狩猟に出かけた時、曹真は虎に追いかけられたのですが、振り返りざまに弓を射ると、虎は弦の響きに応じて倒れます。
曹操は曹真の勇壮さを褒め称え、虎豹騎(親衛騎兵隊)を率いさせるようになりました。
将軍として活躍する
曹真はやがて霊丘の賊を討伐し、霊寿亭候に封じられます。
そして偏将軍として軍勢を率い、下弁に駐屯していた劉備の別動隊を攻撃し、これを打ち破りました。
この功績によって中堅将軍に昇進します。
また、曹操に従って長安におもむくと、そこで中領軍(本営の統括官)となり、地位が順調に高まっていきます。
西部を担当するようになる
この頃、蜀や涼州方面を担当していたのは夏侯淵でしたが、劉備に打ち破られ、漢中で戦死してしまいました。
曹操はこの事態を憂慮し、曹真を征蜀護軍とし、徐晃らを監督させ、陽平にいた劉備の別将・高詳を撃破させます。
曹操は自ら出陣して漢中の部隊を救援すると、曹真に武都に行って曹洪を迎え、それから引き返して陳倉に駐屯せよ、と命じました。
鎮西将軍となる
220年に曹丕が魏の皇帝に即位すると、曹真は鎮西将軍・仮節・都督雍涼州諸軍事に任命されました。
これは西域の諸軍を統括し、指揮する立場についたことを示します。
そして前後に渡る功績によって、東郷候に爵位が上がりました。
やがて張進が酒泉で謀反を起こすと、曹真は費曜を派遣してこれを討伐させ、討ち取っています。
また、221年には反乱を起こした異民族を打ち破り、大きな戦果を上げたという記録もあり、魏の勢力維持に貢献しました。
孫権を攻撃する
222年に都に帰還すると、曹真は上軍大将軍・都督中外諸軍事に任命され、節と鉞(指揮権を示す道具)を与えられました。
そして夏侯尚らとともに孫権を討伐し、江陵を包囲しましたが、陥落させることはできませんでした。
一方で、牛渚の屯営を打ち破る功績を立てます。
すると中軍大将軍に転任し、給事中(皇帝の顧問官)の地位を加えられました。
大将軍に昇進する
226年になると曹丕が病床に伏し、曹真は陳羣や司馬懿、曹休とともに、後継者である曹叡の補佐をするようにと命じられました。
曹叡が即位すると、曹真は大将軍に昇進し、魏軍の重鎮の地位を得ています。
同じく曹操の甥である曹休が大司馬となっており、皇帝の一族の中で、軍事に秀でた者たちが高い地位を占めたのでした。
諸葛亮の北伐に対応する
228年になると、蜀の丞相・諸葛亮が北伐を実施し、祁山が包囲されました。
すると涼州の南安・天水・安定の三郡が謀反を起こし、諸葛亮に呼応します。
この危機的な事態に対し、曹叡は曹真を派遣し、諸軍を指揮させ、郿に指揮所を作らせました。
曹真は配下の張郃に命じ、街亭に陣取った馬謖を攻撃させ、これを大いに撃破します。
この戦いの勝因は馬謖の指揮の誤りによるところが大きいのですが、ともあれ、諸葛亮の侵攻を食い止めることに成功しました。
三郡を平定する
馬謖が敗れると、安定の住民である楊条らが、官民を連れ去って月支城に立てこもります。
すると曹真は進軍し、これを包囲しました。
楊条は仲間に向かい、「大将軍みずからが軍を率いてやってきたのだから、わしはなるべく早く降伏を願い出るつもりだ」と述べ、自分を縛り上げて城から出てきます。
こうして蜀に奪われかけた三郡は、曹真がすばやく奪還したのでした。
陳倉の守りを固めさせる
曹真は、諸葛亮は祁山を攻めて失敗したので、今度は陳倉の方から攻めてくるだろうと予測します。
このため、将軍の郝昭や王生を派遣し、城を修築させました。
翌年の春になると、曹真の読み通りに諸葛亮は陳倉を攻めてきましたが、すでに守りが固められていたために、攻略することができませんでした。
この功績によって曹真は領邑を加増され、合計で2900戸になっています。
大司馬に昇進し、蜀の討伐を進言する
230年になると、曹真は洛陽に参内し、大司馬に昇進しました。
剣を所持し、履をはいたままで上殿し、参内しても小走りにならないでよいという特別な待遇を与えられます。
(小走りになるのは貴人に対する礼儀でした)
こうしてさらに地位が高まると、曹真は曹叡に次のように進言をしました。
「蜀は毎年のように出撃し、国境に侵入しております。
ですので、これを討伐するべきです。
複数の街道から並んで侵入すれば、勝利を得ることができるでしょう」
曹叡はこれを採用し、蜀の討伐が実施されることになります。
【次のページに続く▼】