蜀漢とは 劉備による建国と、劉禅による滅亡について

スポンサーリンク

蜀漢しょくかんは中国の三国時代に存在した国家です。

国号は漢であり、前漢や後漢と区別するために、蜀漢と呼ばれています。

「蜀」は中国の南西部にある益州のことで、ここに劉備が割拠したことがきっかけで、建国されました。

首都は成都です。

【蜀漢を建国した劉備】

建国のいきさつ

後漢は西暦25年に建国された国でしたが、やがて180年代になると、黄巾の乱などの反乱があいつぎ、著しく衰退するようになりました。

そして群雄が地方で独立割拠しますが、その中から曹操が台頭し、呂布や袁紹などを打ち破り、大陸の北半分を制圧します。

曹操は献帝を推戴して権力の正当性を獲得していましたが、曹氏の権力が膨らむ一方で、献帝はなんら実権を得ることができませんでした。

こうして後漢は実質を失いましたが、ついに220年になると、曹操の子・曹丕が献帝に譲位を迫って皇帝の地位を奪い、魏王朝を開きました。

こうして後漢は滅亡します。

すると翌221年に、益州で割拠していた劉備は、献帝にかわって皇帝に即位し、漢王朝を引き継ぐことを宣言します。

そして曹丕を打倒し、漢を復興することを大義として掲げました。

劉備は漢王室の血を引いていましたので、それが即位の根拠になっています。

支配していたのは十数州ある中の一州のみであり、実質的には地方政権だったのだと言えます。

似たような事例には、明が滅亡した際に鄭成功ていせいこうが、王族を推戴しつつ台湾で割拠し、明の復興を目指したものがあります。

中国は領域が広いため、王朝が滅んでも、地方で縮小化した上で存続することが、しばしばありました。

劉備から劉禅へ

こうして劉備は皇帝になると、呉の孫権に奪われた荊州を奪還するため、222年に攻めこみました。

しかし荊州を守る陸遜りくそん夷陵いりょうの戦いで大敗し、白帝城に撤退します。

やがて劉備は重病にかかったため、223年に重臣の諸葛亮を呼び寄せました。

そして曹丕の打倒と後継者の劉禅の補佐を、諸葛亮に託してから崩じています。

この時に劉備は諸葛亮に対し、「劉禅が補佐するに足りないと思ったら、君が国を治めてくれ」とまで言って、諸葛亮に全権を委ねました。

これによって、二代皇帝の劉禅が即位します。

そして諸葛亮が丞相じょうしょう(首相)に就任し、劉備が掲げた大義を引き継ぐことになります。

【丞相として蜀漢を主導した諸葛亮】

南蛮討伐

劉備が崩じると、益州南部の四郡で反乱が起き、蜀漢は動揺しました。

しかし諸葛亮はすぐに討伐を行わず、残る地域の統治を固めつつ、自分を中心とした体制の構築に専念しました。

そして農業を盛んにして兵糧を蓄え、街道などのインフラを整備しつつ、戦いを起こさずに民力を休養させます。

こうして準備を整えると、225年に諸葛亮は南方の四郡を平定し、孟獲ら南蛮族を心服させ、蜀漢の勢力を拡大しました。

こうして後顧の憂いを絶つと、諸葛亮はいよいよ魏討伐の準備を始めます。

北伐

諸葛亮は漢中に駐屯して体制を整えると、228年から魏への攻撃を開始しました。

これは「北伐ほくばつ」と呼ばれています。

最初の攻撃は馬謖ばしょくの命令違反によって失敗しましたが、翌229年に武都と陰平いんぺいの二郡を奪取し、はじめて魏の領土を獲得することに成功しました。

それ以後は魏の将軍・司馬懿が西方の守備につくようになり、諸葛亮と対峙します。

諸葛亮は司馬懿にも勝利を収めますが、なかなか敵の領土を奪い取ることはできませんでした。

益州の国境は山岳地帯であり、このために食糧の輸送には多大な困難が生じました。

それを解消するため、諸葛亮は木牛もくぎゅう流馬りゅうめといった食糧輸送の機械を作って対応します。

諸葛亮はこれに加え、屯田を始めようとしますが、その矢先の234年に、五丈原で病のために死去しました。

こうして蜀漢による魏への攻勢期は、終わりを告げることになります。

蒋琬が後を継ぐ

諸葛亮は自分の死後のことを、蒋琬しょうえんに託しています。

蒋琬は235年に大将軍に就任すると、漢中に駐屯して軍を統括しつつ、国政も担当しました。

しかし諸葛亮のように積極的に攻勢に出ることはなく、この頃から蜀漢の動きは、停滞していくことになります。

「丞相(諸葛亮)でさえできなかったことが、私たちにできるわけがない。大軍を擁する魏を打ち破れるほど、並外れた将軍が登場するのを待たねばならない」というのが蒋琬の考えでした。

たとえるなら、劉邦における韓信のごとき天才的な人物が現れなければ、物量に勝る魏には勝利できない、ということでした。

蒋琬は己の限界を知り、無駄に軍を動かして、国力を疲弊させる愚を犯さなかったのだと言えます。

魏の攻撃を受ける

やがて244年になると、魏の大将軍の曹爽そうそうと、夏候玄らが漢中に攻めこんで来ました。

これは曹爽が入念な準備もなく、功名心にかられて実施したものでした。

彼らを将軍の王平や費禕ひいが迎撃し、撃退に成功します。

漢中は天然の要害とも言える地で、山岳地帯に囲まれていましたので、そこに要塞を築いて防衛すれば、そうやすやすと攻略されることはありませんでした。

このために蜀漢の大将軍たちは、漢中に駐屯して防備にあたったのでした。

費禕が後を継ぐ

蒋琬が246年に亡くなると、費禕が替わって大将軍になり、国政を担当します。

費禕もまた、積極的な攻勢には出ませんでした。

しかし蒋琬も費禕も、一国を保つには十分な器量を備えており、彼らが健在な間は、蜀漢はその勢力を維持できていました。

どちらも諸葛亮が自分の後継に指名した人材であり、その期待によく応えていたのだと言えます。

費禕が殺害される

しかし253年に、費禕が魏から降伏してきた郭循かくじゅんの手によって、暗殺されてしまいます。

これは宴席での出来事でしたが、郭循は蜀漢の柱石である費禕を亡き者にするために、偽りの降伏をしたのでしょう。

こうして蜀漢は重要な人材を失いましたが、以後は国家を担えるほどの政治家を、得ることができなくなります。

そして宦官かんがん黄皓こうこうが劉禅に取り入り、政治を乱しはじめました。

姜維が攻勢に出る

そんな中、衛将軍の姜維きょういは攻勢に出ることを主張し、たびたび涼州方面に出撃しています。

当初は費禕に1万程度の兵力しか任せてもらえなかったため、なかなか戦果を上げられませんでした。

しかし費禕亡き後には数万の軍勢を率いるようになり、255年にはよう州刺史・王経に大勝します。

そして翌256年に大将軍となりました。

【積極的に攻勢に出た姜維】

ですが、姜維はそれまでの蒋琬や費禕とは違い、国政への影響力は乏しく、軍勢を率いて戦うだけの立場となっていきます。

朝廷は能力がないものの、権力欲だけは強い黄皓に支配されるようになり、国力が低下していきました。

劉禅はそんなを黄皓を重用し続けたので、悪政がはびこるようになります。

劉禅は自分の意志が乏しく、優れた人材に補佐を受けている間は問題なく君臨できたのですが、悪臣がはびこっても、それを留めることができるほどの見識はもっていませんでした。

相手によって、白にも黒にも染まってしまう人物だったのだと言えます。

姜維が鄧艾に敗れる

そんな中、姜維は前線に留まって戦い続けますが、魏の将軍・鄧艾とうがいが西方に赴任すると、彼に勝つことができず、敗戦を重ねます。

そして段谷の戦いでは、1万の兵士を失うほどの大敗を喫しました。

こうして蜀漢は政治でも軍事でも、行き詰まりを見せていきます。

【次のページに続く▼】