征南将軍は中国の官職です。
後漢や三国時代に設置されました。
「征南」とは「南を征する」の意で、その名の通り、南方に敵がいた場合に攻撃する役目を担いました。
具体的には荊州と豫州が担当地域で、新野に駐屯することになっていました。
使持節と合わせて任命されることが多く、独自の指揮権を持った方面司令官の立場でした。
類似の地位に鎮南将軍もありましたが、こちらは防衛を担当します。
また、征東、征北、征西将軍も存在しており、合わせて四征将軍と呼ばれました。
これらの将軍位は、平和な時代には敵がいないために設置されず、漢代ではそれほど重要な地位ではありませんでした。
しかし後漢の末期から三国時代にかけては騒乱が続きましたので、重要度が増していきます。
現代でいうと、大将にあたる高い地位です。
三国志では
三国志では、魏の曹仁が219年に征南将軍に任命され、荊州の樊城に赴任しました。
【周瑜や関羽と荊州で戦い、武功を立てた曹仁】
そして攻め上がってきた関羽を迎え討ちます。
この時期に、近くの川が氾濫して樊城が浸水しました。
そのうえ援軍としてやってきた于禁の陣営も水没します。
関羽はこの機を活かして于禁に攻めかかって捕虜にしたので、援軍が消滅し、曹仁は危機に陥りました。
曹仁は城兵を励まして士気を保つと、粘っているうちに孫権が動き、関羽の領地を奪い取ります。
そして新たに徐晃が救援に駆けつけてきたので、曹仁は樊城を守り切ることができました。
こうして関羽を撃退した曹仁は、やがて車騎将軍に昇進し、さらに大将軍・大司馬と位を進めています。
その後は夏候尚(夏侯惇の甥)が就任し、上庸に駐屯していた劉備軍の申耽や劉封を討伐するなどして活躍しています。
蜀では趙雲が223年に征南将軍に任命されました。
【関羽や張飛の亡き後に、征南将軍に昇進した趙雲】
しかし実際に荊州方面に攻め入ることはなく、その後で鎮東将軍に転任しています。
蜀は呉と同盟を結びましたので、呉の領地になった荊州に攻め入る征南将軍を設置しておく必要が乏しくなり、このために趙雲の将軍位が変更になったのだと思われます。