蜀漢とは 劉備による建国と、劉禅による滅亡について

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魏に攻めこまれる

やがて魏では、衰えが見えた蜀漢を、制圧することが検討されるようになります。

これ以前に大規模な食糧の増産計画が実行され、遠地にも大軍を送りやすくなった、という事情もありました。

そして263年になると、魏は20万という大軍を動員し、蜀漢に攻めこんで来ました。

鄧艾、鐘会しょうかい、諸葛緒らの将軍たちが、それぞれ三方面から同時に侵攻してきます。

これに対し、姜維は剣閣けんかくに籠もって鐘会の攻撃を防ぎ、つけいる隙を与えませんでした。

しかしその間に、鄧艾が率いる別働隊が、険しい道を抜け、蜀漢の首都である成都に迫ります。

そして成都の防衛の要である緜竹めんちくが攻め落とされ、諸葛瞻しょかつせん(諸葛亮の長男)が討ち死にしました。

降伏する

こうして成都の守りを失うと、劉禅は降伏を決断し、その旨を鄧艾に申し入れました。

鄧艾がそれを受諾し、これによって蜀漢は滅亡しています。

魏・蜀・呉の中では最初に滅亡を迎え、三国時代は終焉しました。

その後

それでもまだ姜維はあきらめず、鐘会をそそのかして蜀の主になるように勧め、魏を裏切らせようとしました。

やがて鐘会はその気になり、鄧艾を謀反人として始末すると、姜維を将軍に任命しようとします。

姜維はその後で鐘会を討ち、蜀漢を復活させようと企んでいたのでした。

しかしこの計画を知った魏の諸将が鐘会を殺害し、姜維もまた討たれました。

こうして蜀漢は、完全に滅亡しています。

劉禅は魏と、その後に建国された晋に従順な態度を見せたため、安楽県公に封じられました。

そして271年に、洛陽で65歳の天寿を全うしています。

思公とおくりなされました。

【二代にして最後の皇帝となった劉禅】

劉禅の諡号

こうして劉禅は蜀漢を滅ぼしてしまいましたが、五胡ごこ十六国の時代になると、再び漢が建国されます。

これを実行したのは劉淵りゅうえんという人物で、彼は304年に前漢・後漢・蜀漢の後継者を自称しました。

劉淵は北方の異民族である匈奴きょうどの出身でしたが、匈奴には前漢王室の皇女が嫁いでいましたので、血縁関係があったのです。

こうして漢が復活したため、劉禅にも孝懐帝という、皇帝としての諡号しごうが贈られることになります。

漢王朝は400年にも渡って中国を支配していましたので、その影響力は、簡単には消え去らなかったのでした。

蜀漢正統論と三国志演義

蜀漢は地方政権ではあったものの、前代の支配者である後漢を引き継ぐのを目的としたことから、三国の中では蜀漢こそが正統な王朝であった、とする歴史観が存在しています。

この歴史観の萌芽は、陳寿ちんじゅが記したいわゆる『正史』の中に用意されています。

正史の中では、劉備が布告した、蜀漢建国の意義を表明した公文書がいくつも掲載されており、それを読むと蜀漢にも正当性があったのだ、と認識できるようになっています。

一方で、魏の側のこうした文書は収録されていません。

これは蜀漢の遺臣である陳寿が、蜀漢こそが正統なのだという、密かな意図を込めて正史を叙述したからではないか、と言われています。

その後の歴史家たちが、こうした陳寿の仕掛けの影響を受け、蜀漢正統論を立てるようになったのでした。

羅漢中らかんちゅうもまたこの論の影響を受けており、蜀漢、すなわち劉備や諸葛亮を主人公とした『三国志演義』を創作しています。

この作品によって、彼らの物語が広く後世にも知られることになったのでした。

蜀漢の皇帝と在位年

劉備(昭烈帝) 221-223年
劉禅(孝懐帝) 223-263年

蜀漢の人口と兵力

劉禅が降伏した際に、官民の戸籍簿を魏に送っています。

それによると、蜀の戸数は二十八万戸で、男女の人口は九十四万、将兵十万二千、官吏四万となっています。

年表

221年

劉備が皇帝に即位し、蜀漢を建国する

222年

劉備が荊州に攻めこむも、夷陵の戦いで大敗する

223年

劉備が永安で崩御する
劉禅が二代皇帝となり、諸葛亮が丞相に就任する

225年

諸葛亮が益州南部を討伐し、反乱を鎮圧する
以後は南蛮族も蜀に帰順する

227年

諸葛亮が漢中に駐屯し、北伐の準備を開始する

228年

諸葛亮が北伐を開始する
一時は涼州の三郡を支配下に置くも、馬謖の命令違反によって敗北する
追撃してきた魏の将軍、王双を討ち取る

諸葛亮は帰還後、馬謖を処刑し、自らを三階級降格として右将軍になる

229年

諸葛亮は再び魏に攻め入り、武都と陰平郡を奪取する
この功績によって丞相に復帰する

230年

魏が司馬懿らを漢中の攻撃に送り込んでくるが、大雨の影響で撤退する

231年

諸葛亮が祁山きざんを攻撃するも、食糧不足で撤退する
追撃してきた魏の将軍・張こうを討ち取る

234年

諸葛亮は輸送力を強化し、屯田を行って食糧不足の解決に取り組むも、果たせぬうちに五丈原で死去する
死後に魏延が楊儀と争って成敗される

蒋琬が尚書令しょうしょれいとなり、諸葛亮の後継者として国政を統括する

235年

蒋琬が大将軍に昇進する

238年

蒋琬が漢中に駐屯する

239年

蒋琬が大司馬に昇進する

243年

費禕が尚書令から大将軍に昇進する

244年

魏の大将軍・曹爽と夏候玄が漢中に攻めこんでくるも、王平と費禕が撃退に成功する

246年

蒋琬が死去する

247年

姜維が蛮族の反乱を討伐し、衛将軍に昇進する

248年

費禕が漢中に駐屯する

249年

魏で政変が発生して曹爽が処刑され、夏候覇が蜀に帰順する
以後、魏は司馬懿の一族が実権を握る

姜維が雍州に攻めこむも、勝利できず

250年

姜維が西平に攻めこむも、勝利できず

252年

呉王・孫権が死去する
この頃から呉の勢力が衰え始める

253年

費禕が魏の降人、郭循によって殺害される
姜維が南安に攻めこむも、勝利できず

254年

姜維が涼州で勝利し、三県の住民を蜀に移住させる

255年

姜維が洮西とうせいで雍州刺史・王経に大勝する

256年

姜維が大将軍となる
姜維が魏の将軍・鄧艾と段谷で戦って大敗し、1万の兵士を失う

258年

黄皓が権力を握る この頃から姜維は成都に帰還しなくなっていく

260年

関羽・張飛・黄忠・馬超・龐統ら、建国の功臣たちを称えるため、諡号が追贈される

261年

前年に続いて、趙雲に諡号が追贈される
これらの措置には、衰退しつつある蜀の権威を取り戻そうとする意図があったと思われる

262年

姜維が出撃するも、沓中とうちゅうで鄧艾に敗れる

263年

司馬昭の命令によって、魏軍20万が三方向より蜀に攻めこむ
姜維は剣閣で鐘会を防ぐも、鄧艾が悪路を抜けて成都に迫る
鄧艾を防ごうと緜竹で諸葛亮の子・諸葛瞻が抗戦するも、戦死する

劉禅が降伏を決断し、これによって蜀は滅亡した
劉禅は先祖代々の土地である、幽州の安楽県に封じられる

264年

鐘会が反乱を企て、蜀で独立を謀るも、失敗して殺害される
この時に姜維も殺害された

271年

劉禅が65才で死去する
思公と諡された

304年

匈奴の血を引く劉淵が、前漢・後漢・蜀漢の後継者を自称する
やがて劉禅は、孝懐帝という諡号を追贈される