長雨に見まわれる
曹真が西方に向かうにあたり、曹叡は自ら見送りをしました。
曹真は8月に長安を出発し、子午道から南へと向かいます。
一方で司馬懿は漢水をさかのぼり、南鄭で合流する予定になっていました。
その他にも、斜谷道や武威からも侵入しており、大規模に軍勢が動いています。
しかしながら、この時期に30日以上も雨が降り続いたため、蜀へとつながる桟道が途切れてしまう事態となりました。
蜀へ向かうには、山中の細い道を行軍しなければならず、雨の中を進むのは大変に危険なことでした。
王粛が撤退を進言する
この時、散騎侍郎(皇帝の側近)の王粛が次のように上奏しています。
「曹真の軍は長雨にみまわれ、山や坂は険しい上に滑ります。
軍勢が迫っても進めず、兵糧は遠くから送るので続きにくく、行軍をする者にとっては最も避けなければならない状況です。
曹真は出発してから一ヶ月が過ぎていますが、行軍できたのはわずかに子午谷の半分で、道づくりには兵士の全てが参加しているそうです。
賊(蜀軍)が安逸な状態で待ち構え、こちらは勝手に疲弊していく状況になっています。
これこそ、兵法家がはばかることです」
またこの年は凶作で、軍費が不足しているという事情もあったので、曹叡は曹真に詔勅を下し、撤退を命じています。
こうして曹真の計画は、悪天候のために頓挫したのでした。

同僚の子どもに領地を分け与える
曹真は若い頃、一族の曹遵や、同郷の朱讚とともに曹操に仕えていました。
しかし曹遵と朱讚は早くに亡くなったので、曹真は彼らを悼み、自分の領邑を分割し、その子どもたちに与えてほしいと願い出ます。
すると詔勅が下されました。
「大司馬(曹真)は叔向が孤児を養育したのと同じ仁愛を示し、晏嬰が古い約束を守ったのと同じ篤実さを備えている。
君子とは、人の美徳を完成させるものである。
ゆえに曹真の領邑を分割し、曹遵と朱讚の子を関内候とし、それぞれに百戸を与える」
このように曹真は義理堅く、いたわりの心を持った人物だったのでした。
逝去する
曹真は遠征をした際には、いつも将兵たちと労苦をともにしていました。
そして報償が不足すると、そのたびに家財から分け与えたので、兵士たちの士気は高く、曹真の役に立ちたいと心から願っていました。
やがて曹真は病にかかり、洛陽に帰還すると、曹叡は自ら曹真の屋敷に行幸し、見舞いをします。
しかし曹真は回復することなく231年に逝去し、元候と諡されました。
子の曹爽が後を継いでいます。
子どもたちがいずれも列侯となる
曹叡は曹真の功績を思い起こし、次のように詔勅を下しています。
「大司馬は忠節に富み、二祖(曹操と曹丕)の建国を助けた。
内にあっては皇族としての寵遇をたのみとせず、外にあっては貧しい者を見下すことがなかった。
よく位を維持し、努力と謙虚という徳を備えていた。
よって曹真の五人の子を、みな列侯に取り立てる」
また、これより以前、曹真の弟の曹彬もまた、曹真の領邑から二百戸をさかれ、列侯に取り立てられています。
後に子孫が司馬懿に滅ぼされる
このようにして、曹真の子らは魏で栄えましたが、後に曹爽が司馬懿と権力を争い、敗れました。
その際に一族がことごとく殺害されてしまったため、曹真の血脈は絶えてしまっています。
この事件によって曹氏の力が大きく衰え、司馬氏の台頭を招くことなりました。
曹真評
三国志の著者・陳寿は「曹真らは皇帝の親族として仕え、それぞれに勲功を立て、功労があった」と評しています。
曹真は諸葛亮の侵攻を防ぐなど、魏の勢力を維持する上で功績を立てています。
一方において、攻勢に出た時にはさほど成功しておらず、三国の枠組みを変えるほどの働きはできませんでした。
これはまだ各国の勢力が堅調に維持されていたからで、曹真個人の問題とばかりも言えませんが。
人格は謙虚かつ誠実で、忠義にも厚く、曹氏の勢力を支える上で、優良な人材だったと言えます。

