卑弥呼は『魏志倭人伝』に登場する、古代日本に存在していた女王です。
邪馬台国の王で、周辺の諸国を束ねる地位についていました。
邪馬台国では、もともとは男子が王位についており、そうした時代が7〜80年ほど続きました。
しかし180年ごろになると、倭(日本)の国々に戦乱が起こり、何年にもわたって争いが続きます。
この事態を収拾するため、各国は共同して一人の女子を王に立てることにしました。
これこそが卑弥呼であり、『鬼道を用いて人心を掌握していた』と記されています。
神事を司る存在だったと推定される
「鬼道」が何なのかは確定していないのですが、中国の道教に類するものだとか、古代日本の土着宗教(シャーマニズム)だとか、様々に推測されています。
卑弥呼の存在を天照大神と結びつける説もありますが、太陽神信仰をうかがわせるような記述は、少なくとも魏志倭人伝には見受けられません。
いずれにしても、人々は実権から切り離された存在である、祭祀者を王にまつり上げることで統治を安定させようと図り、そのために卑弥呼が即位したようです。
卑弥呼の生活
卑弥呼はかなりの年齢になっても夫がなく、弟が国の統治を補佐した、と記されています。
神に仕える身として、生涯独身だったのかもしれません。
王に即位して以降は人前に出ることがほとんどなく、千人の侍女にかしづかれ、男子がひとりだけ側に仕えていたと言います。
その者が食べ物や飲み物を運び、命令や言上を取り次ぐ役目を果たしていました。
卑弥呼が生活をしていたのは宮室や楼観の中で、周囲には城壁や柵が厳しくはりめぐらされ、武装兵が一日中、警備をしていました。
このような様子を見るに、卑弥呼は象徴的な存在として君臨し、実務は弟や取り次ぎ役が仕切っていたのだと考えられます。
国際情勢の変化
卑弥呼の名前が史書に残ったのは、当時の朝鮮半島の中部に、帯方郡という魏の支配拠点があったことが影響しています。
魏は三国志に登場する曹操が建てた国です。
魏の初めごろ(220年〜)、帯方郡は東方において半ば独立した勢力をもっていた、公孫淵の一族の支配下にありました。
『帯方郡に朝鮮半島の国々や倭が属していた』と記されていることから、当時から外交は行われていたようです。
公孫淵は魏に属しながらも、呉とも勝手に外交を行うなどして自立を図ろうとしましたが、237年になると、ついにまっこうから反乱を起こします。
このため238年になると、魏の将軍・司馬懿が公孫淵の討伐に差し向けられました。
(司馬懿は諸葛亮と対戦したことで知られる人物です)
卑弥呼はこの年の6月に難升米という使者を帯方郡に派遣した、と記されているのですが、これはちょうど公孫淵が司馬懿に本拠地を包囲され、追いつめられていた時期でした。
ですのでこの記述は誤りで、実際は239年だったという説もあります。
戦闘の最中に、結果もわからないうちに使者を送るのも不自然ですし、こちらの説が正しいかもしれません。
一方で、238年がそのまま正しいとすると、すでに卑弥呼は公孫淵の敗北を予測していたわけで、魏の情勢に深く通じていたことになります。
皇帝との外交
ともあれ、公孫淵は8月に攻め滅ぼされ、東方は魏が直接統治をするようになりました。
そして帯方郡には、魏から派遣された太守が新たに赴任します。
卑弥呼と邪馬台国の首脳部はこのような情勢の変化に対応するために、魏の皇帝と新たに外交を行う必要を感じ、使者を派遣したのです。
難升米は帯方太守の劉夏に会うと、「天子(皇帝)に謁見をして献上物を捧げたい」と願い出ました。
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