荀攸 曹操を中原の覇者に押し立てた名軍師の生涯

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袁氏を撃破する

曹操は袁譚を支援する一方で、河北を攻めて袁尚を打ち破ります。

すると袁譚は、弟がいなくなったので、もはや曹操に従う必要はないと考え、背いて独立しようとしました。

このため、曹操は袁譚を討伐するために再度河北に攻めこみます。

荀攸は曹操に随行し、袁譚を討ち取るのにも貢献しました。

こうして曹操は袁氏を滅ぼし、河北の四州を手に入れ、中原の覇者へとのし上がったのでした。

これによって、曹操は並ぶ者のいない、確固たる強者の地位を確立しています。

曹操から絶賛される

このようにして、荀攸は袁氏との戦いにおいて、常に的確に情勢を見通し、勝利につながる策を提案し続けました。

曹操はその功績に報いるため、「軍師の荀攸は、戦いの初めから私を補佐し、あらゆる征伐に従軍しました。

前後に渡る勝利は、すべて荀攸の策謀のおかげです」と上表します。

これによって荀攸は、陵樹亭りょうじゅてい候の爵位を与えられました。

さらに207年にも、大規模に論功行賞が行われ、曹操は「忠義かつ公正で、緻密な策略を立て、国の内外を鎮撫した者には、荀彧がこれに該当し、荀攸がこれに次ぐ」と評しました。

荀攸はこの時に領邑を四百戸追加され、合計で七百戸となっています。

曹操はこの時、荀攸を張良(劉邦に仕えた伝説的な名軍師)になぞらえ、自分の領地の場所を選ばせる待遇を与え、非常に高く評価していることを伝えています。

自らの功績を誇ることはなかった

荀攸は曹操に随行するようになってからは、いつも陣中ではかりごとをめぐらせていました。

しかし荀攸は慎ましやかな性格で、機密を重視していたので、同じ陣中にいた者や家族にすらも、自分が立てた作戦を語ることはありませんでした。

ある時、甥の辛韜しんとうが荀攸に、袁氏を討伐した時に、荀攸が立てた策を教えて欲しいと求めます。

すると荀攸は「袁譚が降伏を申し出てきたから、官軍が出撃してこれを平定したまでのことだ。わしは何も知らぬ」と、にべもない返事をしました。

これ以来、家族も世間の人々も、二度と荀攸に、軍事や政務について質問をしようとはしなくなります。

曹操はそんな荀攸を、次のようにほめたたえました。

「公達(荀攸)は、表面的には愚鈍に見えるが、その内側には英知を有している。

一見したところは臆病に見えるが、その内側には勇気を備えており、剛気でもある。

善行をひけらかさず、面倒なことを人に押しつけない。

顔回がんかい(孔子の高弟)であっても、彼以上ではなかっただろう」

曹操が言うように、荀攸は能力がずば抜けていましたが、それを誇らしげに人に見せつけない、謙遜の徳を持った人物だったのでした。

曹操や曹丕から敬意を受ける

曹操はその後も荀攸を大変に尊重し、太子の曹丕に対し、「公達は人の手本となる人物である。おまえは礼を尽くして彼を尊敬しなければならぬぞ」と言いました。

このため、荀攸が病気にかかった際に、曹丕は荀攸を見舞い、寝台の下で拝礼をするというふるまいに出ています。

荀攸はこのように、曹操と曹丕から特別な待遇を受けたのでした。

荀攸が控えめな性格だったので、曹操はよりいっそう、荀攸を積極的にほめたたえようという気持ちになっていたのだと思われます。

荀攸の本当のすごさを知っていたのは曹操だけでしたので、それゆえに自らの口で何度も称賛し、世の人々にも荀攸のことを知って欲しいと思ったのでしょう。

曹操の権力の拡大に逆らわず

曹操は208年に丞相じょうしょう(首相)に就任すると、その後も次々と特権を与えられ、やがて漢に取って代わり、皇帝になるつもりではないかと見られるようになりました。

漢王朝の継続を望む荀彧は、やがて曹操への特権の付与に反対するようになり、曹操との関係が悪化しました。

そして憂悶の中で病死、あるいは自害をしたと言われています。


【荀彧 曹操の覇権の拡大に協力するも、最期は不幸な終わりを遂げた】

一方で荀攸は、叔父とは反対に、曹操が魏公の爵位を献帝から受けるように求められた際に、賛成する上表を行っています。

曹操や曹丕から特に尊重されたのは、漢から魏への政権の移行に、荀攸が協力したから、という理由もあったと思われます。

叔父の荀彧が反対していただけに、その反動として、荀攸の価値が高まったのでしょう。

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