荀攸 曹操を中原の覇者に押し立てた名軍師の生涯

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魏国の尚書令となる

曹操は魏国の主になると、漢の内部において、半ば独立した勢力を形成します。

そして臣下たちを漢から魏国に移籍させますが、荀攸はこの時、尚書令となりました。

これは皇帝や王の側近で、公文書の作成や管理を行い、政務の中枢に参画する地位です。

こうして荀攸は、曹氏が新たな天下人となることに、積極的に協力していったのでした。

荀彧とは違い、時代の流れには逆らわない性格だったのでしょう。

征伐の途上で死去する

曹操は214年に、孫権を征伐するために揚州に向かいましたが、荀攸はこの時も随行していました。

しかし、その途中で体調を損ない、死去してしまいます。

享年は58でした。

曹操はその死を大変に惜しみ、彼の話をするたびに涙を流しました。

曹操は次のような布告を出し、荀攸を改めて称賛しています。

「私は荀公達と天下を巡り歩いて二十数年を過ごしたが、非のうちどころは、ひとつとしてなかった。

彼はまことの賢人である。

温・良・恭・謙・譲の五徳を具えており、それによって枢機に参画した人物だと言える。

孔子は『晏平仲あんへいちゅうは人との交際において優れており、長く人とつきあっても、決して敬意を忘れることがなかった』と述べた。

荀公達はまさしく、そのような人物であった」

「温・良・恭・謙・譲」とは、「穏やかで、素直で、うやうやしく、慎ましく、控えめである」という、儒教における五つの徳のことです。

孔子が人に接する時の態度がこのようなものだったと論語に書かれており、荀攸はそれに当てはまる人物だと評されたのでした。

鍾繇が荀攸について書こうとするも、果たさず

荀攸は、同じく曹操の重臣だった鍾繇しょうようと仲が良く、よく相談を受けていました。

鍾繇は、何か行動をする際には、繰り返し考えを巡らせ、もう変更の余地がないと確信するまで考え抜く人でした。

その上で荀攸に意見を求めると、いつも自分の考えを上回る意見を出してくるため、荀攸に敬意を払っています。

鍾繇は荀攸が立てた十二の奇策を全て知る、曹操以外には唯一の人でもありました。

このため、鍾繇は荀攸の策をまとめた著作を作ろうしようとするのですが、それをやり遂げないうちに亡くなっています。

それが原因で、荀攸の智謀は呂布と袁紹と戦った時のことしか、伝わらなくなってしまいました。

鍾繇は荀攸が亡くなった後、16年間も生きていたのに、荀攸の策を書き残さなかったので、史家の裴松之はいしょうしに苦情を述べられています。

鍾繇が書かなかったのは、政務が忙しくてやる時間がなかったのか、実はあまり熱心ではなかったのか、そのあたりは不明です。

あるいは、荀攸が語ろうとしなかったことを勝手に書き残すのに、ためらいがあったからなのかもしれません。

なお、鍾繇は荀攸が亡くなった後、まだその子供たちが幼かったので、面倒を見てやっています。

二人の間の友情は、それほど確かなものだったのです。

ともに黄門侍郎に就任したことがあり、荀彧から同時に推薦を受けるなど、両者はなにかと縁がありました。

荀攸の子孫

荀攸の長男・荀しゅうは父に似ていると言われていましたが、若くして亡くなりました。

このため、次男の荀てきが後を継ぎますが、子供がなかったために家が断絶してしまいます。

この事態を受け、荀攸の名を惜しんだ曹丕が、孫の荀ひょう(三男の子)を取り立て、陵樹亭候の爵位と三百戸の領邑を与え、名跡を継がせました。

荀攸評

三国志の著者・陳寿は荀攸を賈詡と並べて評しています。

「荀攸と賈詡は、打つ手に失策がなく、事態の変化に対応することができた。前漢の張良や陳平に次ぐ人物であろう」

この評の通り、荀攸は策を立てるのに失敗したことがなく、非常に緻密な思考力を持った人物でした。

賈詡は、人格面では荀攸とは全く異なりますが、智謀においては同等の人材であり、このような者たちを何人も抱えていたことが、曹操陣営の強みでした。

荀攸は智謀に加え、儒教が追求する君子(立派な人物)の徳を兼ね備えており、このために曹操から何度も称賛を受けることになりました。

荀攸は自分にいくら才能があろうとも、それを理由にして放縦にふるまうことがない、高潔な人物だったのだと言えます。