董昭は曹操や曹丕に仕えた参謀です。
曹操が献帝をその手中に握り、権勢を獲得するのに貢献しました。
また、曹操が魏公・魏王となり、やがて漢に取って代わるための動きを推進しています。
長命だったので、曹叡にも仕え、魏の重臣となって世を終えました。
この文章では、そんな董昭について書いています。
定陶に生まれる
董昭は兗州の濟陰郡・定陶県の出身でした。字は公仁といいます。
一五六年に誕生しています。
孝廉に推挙され、廮陶の県長や、柏人の県令などに任命され、地方官として務めました。
やがて董卓が台頭して戦乱の世になると、袁紹に仕えます。
そして袁紹から参軍事に任命され、戦いに関わるようになりました。
鉅鹿を統括する
袁紹が公孫瓚と界橋で争っていたころ、鉅鹿郡の役人たちは、公孫瓚の強勢を恐れ、みな公孫瓚に味方しようとします。
袁紹はそういった動きを抑えるため、董昭に鉅鹿を統治させることにし、「どのような策をもって、反乱を防ぐつもりか?」とたずねました。
すると董昭は「一人の力はわずかなもので、大勢の計画を打ち消すことはできません。ですので、まず彼らの心をつかむために、その意見に賛同します。そして彼らの内情を把握してから、適切な措置をとって、彼らの行動を押さえつけます。計略は臨機応変に行うものですから、いまはまだ明らかにできません」と答えました。
鉅鹿では、孫伉という者が中心となり、数十人の仲間とともに陰謀を企み、官民の心を乱し、騒ぎを起こしていました。
董昭は鉅鹿に着任すると、偽の布告文を作り、袁紹の名をかたって郡民たちに告げました。
「賊の斥候である張吉が述べたことによると、鉅鹿を攻撃するに際し、賊である孫伉らが協力していることがわかった。布告文がそちらに届けられたら、彼を逮捕し、法を執行せよ。悪事の責任を取らせるのは彼らの一身にとどめ、妻子をも処罰することはないように」
董昭はこの布告文をかかげて命令を下し、孫伉の一党をひとり残らず処刑しました。
この措置によって、鉅鹿郡の者たちは震え上がります。
董昭はその後で、彼らを懐かせようとして、順序をたてて慰撫したので、情勢が安定しました。
これらの措置が終わってから報告すると、袁紹は「見事である」と褒め称えました。
このように、董昭は策に長けており、果断な性格の持ち主だったのでした。
魏郡の賊を討伐する
また、魏郡においても騒動が起きており、太守の栗攀が兵士に殺害される事態が発生します。
このため、袁紹はまたも董昭を派遣し、状況の改善を任せました。
このころ、魏郡では治安が乱れきっており、賊の数は数万を数えるほどになっています。
それでも各地からの使者が行き来し、商業活動は続けられていました。
董昭はそういった者たちを厚遇し、利用して賊に仲間割れが発生するようにと仕向けます。
そして隙を見つけては攻撃をしかけ、何度も大勝を収めました。
二日の間に、三度にも渡って勝利を知らせる報告をした、と記録されています。
このようにして、董昭は袁紹の勢力の安定に、大きく貢献したのでした。
袁紹の元を離れる
しかしながら、董昭はやがて袁紹の元を離れることになります。
董昭の弟の董訪は、兗州に勢力を持つ張邈の配下になっていました。
張邈と袁紹は仲が悪かったので、董昭のことを悪く言う者が現れると、袁紹はこれを信じこみました。
そして董昭を処罰しようとしたので、董昭は袁紹の勢力から離れることにします。
袁紹は猜疑心が強かったので、優れた人材が手元にいても、使いこなせないことが多かったのでした。
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