曹丕の側近となる
やがて曹操が亡くなり、曹丕が魏の皇帝に即位しました。
すると董昭は大鴻臚に昇進し、右郷候に爵位が上がります。
そして領地のうちから百戸を分け、董昭の弟である董訪に与えられ、関内侯に取り立てられました。
董昭はさらに昇進して侍中となり、曹丕の側近になります。
長江での戦いに意見を述べる
二二二年になると、征東大将軍の曹休が、長江を渡って呉を攻撃したいと申し出ました。
曹丕は、曹休がすぐに長江を渡ってしまうのではないかと懸念し、馬を走らせ、詔勅を下して攻撃を中止させます。
この時、董昭は曹丕の側におり、このことについて意見を述べました。
「陛下は憂いておられるようですが、曹休が長江を渡ろうとしているのが原因でしょうか。ただいま、人々は長江を渡ることを希望していません。たとえ曹休にその意志があっても、一人では実行できませんので、将軍たちの協力を得なければなりません。
その将軍たちは、すでに富裕で、地位も高いので、それ以上のことは望まず、俸禄や官位を保つことだけを希望しています。ですので危地に踏み込み、それによって功績をたて、幸運を得ることを求めません。将軍たちが進軍しなければ、曹休の意志はくじかれるでしょう。
臣が心配しておりますのは、陛下が詔勅によって渡河を命じても、彼らがためらい、なかなか命令に従わないのではないかということです」
この後、しばらくすると呉軍の船に暴風がふきつけ、曹休の軍営に流れ着きました。
このため、曹休らは呉軍の将兵の首をとったり、捕虜にするなどします。
生き残った兵士たちは逃げ散りましたが、曹丕はこの機をとらえ、詔勅を出し、諸軍に急ぎ渡河するようにと命じました。
しかし董昭が懸念した通り、将軍たちの動きは鈍く、進軍しないでいるうちに、呉の救援軍がやってきてしまい、好機を逃しています。
このように、このころの東部における魏軍は、将軍たちが老い、積極的に攻勢に出る勢いがなくなっていたのでした。
夏侯尚の作戦に忠告する
その後、曹丕が宛に行幸した際に、征南大将軍の夏侯尚らは、江陵を攻撃していました。
この時、長江の水量が少なくなっており、夏侯尚は歩兵や騎兵を率い、船で移動し、中州に屯営を設けます。
そして浮き橋を作り、南と北で行き来しようと考えました。
多くの者はこれによって江陵を陥落させられると考えていましたが、董昭は異なる意見を上奏します。
「武皇帝(曹操)は人並み外れて知勇が優れ、敵を圧する用兵の術を持っておられましたが、敵を軽んじようとはなされませんでした。
戦いにおいては、前進を好み、後退を嫌うものですが、平坦な場所で要害がなかったとしても、簡単に達成はできません。ですので、敵地に深く侵入する際には、退路をよく考えておく必要があります。戦いには前進も後退もあり、いつも思い通りにはいかないものだからです。
いま、中州に駐屯しようとしていますが、最も深みに入る行動であり、浮橋で移動するのは、最も大きな危険を犯す行動です。そして一本の道だけを使って連絡するのは、最も狭い道を頼ることになります。この三つの行動は、戦術家がはばかることですが、いまはこれを実行しています。
もしも賊軍が橋を攻撃し、破壊されたり奪われたりしましたら、中州の軍勢は魏から離れ、裏切って呉に味方することになるでしょう。臣はそれを心配し、寝食を忘れるほどです。しかし他の者達はこのことを気にかけていません。これは分別に欠けていると言えます。
そして、長江の水は増加傾向にありますが、ある日、急激に水量が増えたら、防ぎ止めることはできません。たとえ賊軍を倒せなくなるとしても、味方の安全の確保を優先するべきです。どうして危険を犯しながら、疑問を持たれないのでしょうか。どうか陛下はこのことをご考察ください」
曹丕は董昭の意見によって危険に気がつき、すぐに夏侯尚らに詔勅を下し、中州から引き上げるように命じました。
すると呉軍は二手に分かれて攻撃をしかけてきましたが、魏軍は退路が一本しかなかったので、将軍たちは撤退するのに苦労します。
そして軍が中州から引き上げて十日ほどがたつと、長江の水は急に増加したので、董昭が懸念していた通りの状況になりました。
曹丕はこの結果を受け、「君の事態に対する判断は、明晰であった。張良や陳平であっても、これほどではなかっただろう」と、董昭のことを絶賛しています。
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