臥龍とは、「眠れる龍」を意味する言葉です。
まだ無名だったころの諸葛亮が、この号で呼ばれていました。
【臥龍と呼ばれた諸葛亮】
諸葛亮にこの号をつけたのは、龐徳公という人物です。
荊州の襄陽郡の人で、人物鑑定を得意とすることで知られていました。
龐徳公は諸葛亮と並び称された龐統の叔父で、彼を「鳳雛(鳳凰の雛)」と呼んでもいます。
このような号をつけることで、彼らがどのような人物であるかを明らかにしていたのでした。
なぜ臥龍なのか
諸葛亮は後に有名な人物になりますが、若いころは仕官せず、荊州の郊外でひなびた暮らしをしていました。
自分では管仲や楽毅という、古代の優れた政治家たちに比肩する才能があると自負していましたが、少数の友人たち以外はそれを認めず、ごく一部でのみ知られる存在でした。
諸葛亮も積極的に自分を売り込もうとはしていなかったので、大きな才能を秘めていながらも、世間の中に埋もれていたのです。
このため、龐徳公は諸葛亮を臥龍だと評したのでした。
【臥龍という号を諸葛亮につけた龐徳公】
そんな諸葛亮は劉備に存在を知られることで、世に出ることになります。
劉備は司馬徽からその名を聞く
劉備が荊州を支配する劉表の客分となり、新野に駐屯していたころ、司馬徽という名士と話をしたことがありました。
その際に司馬徽は「儒学者や俗人どもに、時局の要点はわかりはしません。それを知る者こそが英傑だと言えます。
このあたりには臥龍と鳳雛がおります」と劉備に告げました。
劉備が誰のことなのかとたずねると、司馬徽は「諸葛孔明(亮)と龐士元(統)です」と答えました。
このようにして、司馬徽の発言として「臥龍」という名が登場します。
龐徳公と司馬徽のつながり
司馬徽がこのように劉備に語ったのは、司馬徽と龐徳公には親交があり、このために諸葛亮と龐統のことをよく知っていたからです。
ちなみに、司馬徽を「水鏡」という号で呼んだのも龐徳公でした。
龐徳公はまだ無名の龐統に対し、司馬徽に会いに行くように勧めてもいました。
これは龐統が司馬徽に評価されることで、世間に名が知られるように働きかけるためでした。
そして龐徳公は諸葛亮とも血縁関係にあり、自分が知る、才能がありながらも無名の若者たちを、世間に押し出していこうとする動きをとっており、それが劉備が諸葛亮と出会うきっかけを作ることになったのでした。
徐庶にも勧められて諸葛亮に会いに行く
劉備は諸葛亮のことを知っても、すぐには会いに行かなかったのですが、やがて自分のところに出入りしていた、徐庶からも諸葛亮の話を聞かされます。
徐庶は諸葛亮の友人で、その才能を高く評価していました。
徐庶はあるとき、劉備に「諸葛孔明は臥龍です。将軍は彼に会いたいと思われますか?」とたずねました。
すると劉備は「そうだな。君が連れてきてくれないか」と答えます。
徐庶は「孔明は、こちらから行けば会えますが、無理に連れてくることはできません。将軍が車をまげて訪問されるのがよろしいでしょう」と言いました。
劉備は徐庶が有能な人物だと思っていたので、彼が勧めるのなら行ってみようかと思い、諸葛亮の家を訪ねます。
しかし諸葛亮が不在だったりしたためになかなか会えず、三度目の訪問でようやく面会できています。
当時の劉備は左将軍・豫州刺史という高官の地位にあり、二十才も年下の、無名の若者にみずから三回も会いに行くのは、破格の対応だったと言えます。
これは「三顧の礼」という故事として、よく知られています。
【諸葛亮を三度も訪ねて面会した劉備】
臥龍を脱する
劉備は諸葛亮に会うと、「漢王室が衰退するのを食い止めようとしているが、知恵も術策も足りないのでうまくいかない。君によい考えはないか」とたずねます。
すると諸葛亮は、「東の孫権と同盟を結び、豊かな荊州と益州を手に入れ、それから曹操を圧迫すれば、やがて中原を取り戻して漢王室を復興させることができます」と戦略案を述べました。
この時に提示された「天下三分の計」によって、劉備は諸葛亮の才能を直に知り、親しく交わるようになります。
そして諸葛亮を軍師として迎え入れ、彼の立てた戦略にそって行動し、蜀を建国するに至りました。
劉備の方から三回も訪ねてきたことに諸葛亮は心を動かされ、劉備の望みをかなえるために、積極的に活動することになります。
この時に、諸葛亮は臥龍ではなくなったのでした。