張楊に引き止めを受ける
董昭は長安にいる献帝の元に行こうとしたのですが、河内までやってきたところで、そこを支配している張楊に引き止めを受けます。
張楊は群雄のひとりで、司州のあたりで一定の勢力を築いていました。
董昭は張楊に頼んで印綬を朝廷に返還し、騎都尉(官軍の指揮官)に任命され、ひとまず張楊のところにとどまることにします。
曹操との同盟を勧める
このころ、曹操は兗州を支配していましたが、やがて使者を張楊の元に派遣してきました。
そして献帝がいる長安と連絡するために、領内を通行させてほしいと張楊に要請します。
張楊はこれを認めなかったのですが、すると董昭が進言しました。
「袁紹と曹操はただいま、同盟関係にありますが、この先もずっと継続することはないでしょう。曹操は袁紹よりも勢力では劣っていますが、英傑であり、能力では勝っています。ですので、彼と手を結んだ方が得策です。
こうして機会が訪れているのですから、長安への連絡を許可してやり、上奏をして、曹操を推挙するのがよろしいと存じます。うまくいきましたならば、長く友好な関係を築くことができるでしょう」
張楊はこの意見を採用し、曹操の長安への連絡を取り次ぎ、上奏して推挙しました。
また、董昭も曹操のために手紙を書き、長安で献帝を擁する李傕や郭汜らに送り、丁重に挨拶をします。
その後で、張楊が曹操に使者を送ると、曹操は返礼として犬や馬、金、絹などを贈りました。
やがて献帝は李傕らを見限り、長安を脱し、安邑に滞在するようになります。
すると董昭は河内から出向き、詔勅を受けて議郎(皇帝顧問官)に任命されました。
こうして董昭は、曹操や献帝との間につながりを持つようになります。
楊奉を懐柔する
一九六年になると、献帝は元の都であった洛陽に帰還します。
しかし献帝を迎えた韓暹、楊奉、董承、そして張楊たちは互いに仲が悪く、いがみあっていました。
この中で、楊奉は抱えている軍隊こそ精強であるものの、味方が少ない状況にありました。
このため、董昭は彼を懐柔し、曹操と同盟を結ぶように働きかけようとして、書簡を送ります。
董昭は、楊奉が献帝の帰還に貢献したことを称賛し、他の者と協力して朝廷を治めていくことを勧めました。
そして曹操は軍隊と食糧を豊富に備えているので、頼れる相手だと伝えました。
楊奉はこの書簡を受け取ると喜び、部下たちに「曹操は近くの許にいる。兵も食糧も持っており、朝廷が頼るべき相手だ」と述べます。
そして上奏し、曹操を鎮東将軍に取り立て、父の爵位を継げるようにし、費亭候にしました。
董昭もまた取り立てられ、符節令になっています。
こうして董昭は曹操のためになるようにと、取り計らう行動を続けていきました。
このころからすでに、曹操こそが乱世を制することになるだろうと、見抜いていたようです。
曹操の相談を受ける
やがて曹操は、洛陽にいた献帝の元に参内します。そして董昭を呼び、一緒に座ってから質問をしました。
「わしはこうしてここにやってきたが、どのような計略を用いるべきだろうか」
董昭は「将軍は義兵を挙げて暴虐な者たちを征伐し、天子(皇帝)に参内し、王室を助けておられます。これは春秋の五霸と同じ功績だと言えます。
ここに集まっている他の将軍たちは気持ちがばらばらで、必ずしも朝廷に服従しているわけではありません。ですのでこのままここに留まり、天子を補佐するのは、よい選択だとは言えません。御車をお移しし、許に行幸されるようにした方がいいでしょう。
しかし朝廷においては、天子があちこちをさすらった後、ようやく古都にお戻りになったばかりなので、みなが腰を落ち着けられ、情勢が安定することを期待しています。ですので、いま御車をお移しすると、人々の期待に反することになります。
ですが、常識の外にある事をやり遂げてこそ、際立った功績は立てられるのです。将軍はその有利さをよくお考えください」
このようにして、董昭は非常の選択をしても、献帝を曹操の勢力圏にある許に移した方がよいと勧めたのでした。
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