楊奉から献帝を奪う
曹操は「それこそがわしの望むところだが、楊奉が都のすぐ近くにいて、精鋭を率いている。彼が妨害してくるのではないだろうか」と言います。
董昭は「楊奉は味方が乏しく、頼りにできる相手が将軍(曹操)の他にいません。あなたが鎮東将軍になられたのは、楊奉が主導して実現したことであり、楊奉はあなたのことを信用しています。しかるべき時期をみて、手厚く贈り物をし、彼の気持ちをなだめ、それからこう告げるとよいでしょう。
『都では食糧が不足している。なので魯陽に御車を行幸させたいと考えている。魯陽は許に近いので、食糧を送るのは簡単で、不足することはないだろう』
楊奉は勇敢ですが、思慮が足りませんので、疑われることはありません。使者を行き来させるうちに、計略を成功させることができます。楊奉などに妨害されたりするものですか」
このようにして、董昭は許ではなく魯陽に献帝を移すと告げることで、曹操が献帝を独占しようとしていると、思われないようにすればいいと助言したのでした。
曹操はこの意見に同意し、すぐに楊奉に使者を送り、最終的に、献帝を許に移すことに成功します。
こうして皇帝の身柄を手元に抱えることにより、曹操の勢威が強まったのでした。
楊奉らを打ち破る
一方で、楊奉はこうして献帝を奪われてしまったわけですが、すると求心力が低下し、勢力が弱まっていきます。
すると韓暹と一緒に定陶に移動し、各地を荒らしてまわりました。
曹操は彼らと直接は戦わず、密かに進軍し、その本拠地である梁を攻撃します。
降伏を望む者は受け入れ、逆らう者は容赦なく討ち取り、短期間で平定に成功しました。
この結果、楊奉と韓暹は軍勢を失い、東方に逃亡して袁術を頼ります。
(彼らは後に劉備に討たれ、その生涯を終えています)
このようにして、曹操は董昭の助言を受け、楊奉を手玉に取り、献帝の身柄を確保し、洛陽の周辺地域を手に入れ、勢力基盤を拡大することに成功しました。
河南尹となり、張楊の勢力を吸収する
一九八年になると、董昭は河南尹に昇進します。これは首都の行政長官の地位でした。
このころ、かつて董昭を引き止めた張楊は、部下の楊醜によって殺害されてしまいます。
このため、後に残された張楊の副官の薛洪と、河内太守の繆尚は、城を固く守り、袁紹の救援を受けようとしました。
すると曹操は董昭に命じ、単身で城に向かわせ、薛洪と繆尚を説得させます。
これを受け、薛洪らは軍勢をこぞって曹操に降伏することにしました。
こうして張楊の勢力は曹操に吸収され、この功績によって董昭は冀州牧(長官)に取り立てられています。
徐州牧となる
その後、劉備が許にやってきて、曹操の元にとどまるようになりました。
劉備は徐州刺史になっていたのですが、呂布に地位を追われて逃げてきていたのです。
曹操は劉備を重用し、袁術が徐州を通って袁紹と合流しようとしていると知ると、これを防ぐようにと命じました。
この時、董昭は曹操に忠告します。
「劉備は勇気があり、そして大きな望みを持っています。そして関羽や張飛といった勇将たちが彼の羽翼として助けています。劉備の心には計りかねるところがありますので、お気をつけください」
しかし曹操は「わしはもう、劉備が徐州に行くことを承認したのだ」と答えるばかりでした。
劉備は徐州の中心地である下邳に到着すると、曹操に任命されていた刺史の車冑を討ち、曹操に背いて旗揚げします。
このため、曹操は自ら兵を率いて劉備を打倒し、徐州を奪還しました。
そして董昭を徐州の牧に転任させています。
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