比叡山の焼き討ちと、明智光秀の出世

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織田信長は1571年に、天台宗の総本山である比叡山・延暦寺を焼き討ちし、多くの僧と、そして民衆を殺害しました。

これは延暦寺が、信長と敵対していた浅井・朝倉氏に味方したことが契機になっています。

信長は浅井・朝倉と手を切るように迫ったのですが、延暦寺がこれを拒んだので、軍事力によって叩き潰すことにしたのでした。

この時に明智光秀は、攻撃に反対する立場を取っていたと、従来は言われていました。

しかし新しく見つかった文書により、むしろ光秀は積極的に比叡山の攻撃に加わり、それをきっかけにして立身したことがわかっています。

この文章では、そのあたりの動きと、光秀の実像について触れていきます。

明智光秀
【明智光秀】

焼き討ちの前の光秀

光秀は、それまでは無名だったのが、足利義昭が信長に擁立されて将軍になったころから、にわかに存在感を高めるようになりました。

なぜかというと、光秀は信長と義昭の、両方の家臣であるという、珍しい立場に立っていたからです。

この時期の政権は、将軍の地位にある義昭と、多くの領地を持ち、実力を備えた信長が協力しあうことで成り立っていましたので、両者の間を取り持つことのできる存在が必要でした。

光秀はその役割を果たすことで、義昭・信長政権における一定の地位を確保したのです。

光秀は美濃みの(岐阜県)の豪族の出身で、人脈があり、美濃を支配するようになった信長へのつてがありました。

そして義昭が将軍になる以前から家臣になっていましたので、両者の間を取り持つ役割に、うってつけだったのでした。

光秀は初め、行政官として活動し、京都の市政や、各地の土地の権利を承認するための事務などを取り扱っていました。

一方では、武将としても活動し、だんだんと信長の作戦に用いられるようになっていきます。

こうして光秀が、文武の両面で能力を認められつつあったころ、近江おうみ(滋賀県)で異変が発生しました。

森可成が戦死する

可成よしなりは、信長が織田家の当主になったばかりのころから仕えていた、古参の武将です。

武勇に秀で、信長の重臣として活躍していました。

信長が中央に進出すると、可成は宇佐山うさやま城主となり、琵琶湖の南西部、つまり延暦寺に近い地域の守備を担当するようになります。

延暦寺と宇佐山城の位置

1570年に、信長は大兵力を動員し、摂津せっつ(大阪)で反抗する三好氏を攻撃しました。

すると浅井・朝倉氏が協同して出兵し、近江を通過し、摂津で戦う信長の背後をつこうとしてきます。

これを放置すると、信長がはさみうちにあってしまいますので、可成は寡兵ながらも出陣し、街道をふさいで浅井・朝倉の進軍を食い止めようとしました。

そして奮闘し、いくらかの時間稼ぎには成功するのですが、兵力差が大きかったので、可成は討ち取られてしまいます。

その後、信長は浅井・朝倉軍が迫っていることを知り、摂津から撤退し、近江に向かい、これを迎撃しようとしました。

しかし浅井・朝倉軍は延暦寺に協力を求め、比叡山に入山すると、そこに立てこもり、戦いに応じようとしませんでした。

このため、信長は比叡山付近に軍を留めざるを得なくなりますが、その間に他の方面で三好、本願寺、六角などの諸勢力から攻撃を受け、窮地に陥ります。

やがて冬になると、信長は義昭に要請して仲介してもらい、浅井・朝倉と和睦し、ようやく兵を引くことができました。

このような経緯があったので、信長は京に近く、軍事的に重要な地点にあった延暦寺に、自分に敵対しないようにと求めたのです。

しかしそれを延暦寺がはねつけたので、攻め滅ぼそうという気になったのでした。

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