山門領などの押領を進める
光秀は滋賀郡を得ただけでは満足せず、その後も山門領(延暦寺の所領)の接収を進めていきました。
その中には、高野蓮養坊の所領もあったのですが、光秀に勝手に占拠されたので、蓮養坊は知人を通して細川藤孝に連絡を取り、この事態を打開しようとします。
細川藤孝は義昭の側近で、光秀の友人でもあり、古くからの付き合いでした。
しかし藤孝から働きかけを受けても、光秀は領地の占拠をやめず、居座り続けました。
それだけにとどまらず、光秀は皇族関係者の所領にも手を出し、青蓮院、妙法院、曼殊院といった寺院の所領を押領します。
これらの寺院は、皇族が門主になることが多く、朝廷との関わりが深い状態にあったのでした。
義昭からの譴責を受ける
こういった行状が重なった結果、ついには将軍である義昭のところにまで、光秀に対する苦情が寄せられるようになり、光秀は譴責を受けました。
この時、光秀は謝罪し、義昭の側近である曽根助乗に、下京の地子銭(税金)や鞍などを贈り、とりなしを依頼しています。
このとりなしに用いた税金は、押領した山門領のものだったとされており、光秀の厚かましさが浮き彫りになっています。
光秀は譴責を受けた後も、青蓮院の領地の押領を続けており、謝罪は形ばかりのもので、実際には反省してなかったのでした。
高まる存在感
こうして光秀は、滋賀郡を手に入れ、山門領を横領し、京都近辺で税金を徴収することもできたので、経済的にも軍事的にも、大きな実力を備えるに至りました。
ほんの数年前までは全くの無名で、わずかな俸禄しかもらっていなかったのに、それが一躍、大名級の実力を持つに至ったのです。
これには、義昭と信長という二人の権力者に接近し、多方面に渡る才能を示し、巧みに立ち回ったことが功を奏したのだと言えます。
義昭から離れ、信長に接近していく
そしてこのころから、光秀は義昭を軽視し、信長に接近していくようになります。
義昭から譴責を受けても、表面だけをつくろってすませたことから、それがうかがえます。
そして一方で、光秀が皇室関係者の所領を押領しても平気でいられたのは、信長の後ろ盾があったからでしょう。
この時期から光秀は、信長ほどの実力があれば、将軍や天皇といった旧来からの権威は恐れるに足らず、勢力を得ていくためには、信長をこそ頼るべきだと考えたようです。
そして信長にそのことが伝わっていたからこそ、信長も光秀を重用するようになり、やがては軍団長の一人にし、近畿一円を任せるほどに信頼したのだと思われます。
信長に近い思想の持ち主だった
光秀は将軍に仕え、和歌などの古典的な教養を身につけていたことから、保守的で、伝統を重んじる性格だったのだろうと見られていました。
しかし、比叡山の焼き討ちの前後にみられた行動から、そうではなかったことがわかってきています。
将軍に仕えたのは、世に出るきっかけを得るための、手段に過ぎなかったのでしょう。
古いものを破壊すれば、新しいものが得をします。
この場合、延暦寺という古いものを破壊すると、武士という新しいものがその領地を奪い、得をします。
光秀はそのような立場を取って実力を得ようとした、野心的な武士だったのでした。
信長の家臣には、こういったタイプの武士が多いのですが、だからこそ新参であっても、すんなりと光秀は信長に受け入れられ、用いられたのだと思われます。
そしてこの結果、信長は後に、本能寺の変という不幸に遭遇することになりました。
本能寺の変の原因は諸説あり、確定していませんが、比叡山焼き討ちの前後の動きからして、光秀の野心的な側面が引き起こした謀反だったのだと、解釈することもできるでしょう。