宇佐山城主になる
このような経緯によって、可成が戦死したことで、宇佐山城主の地位が空席になります。
すると信長は、光秀を城主に抜擢しました。
このころの近江各地の城は、木下秀吉、柴田勝家、丹羽長秀といった、信長の主力武将たちが城主になっており、最も重視されていた地域でした。
近江は信長の本拠である尾張・美濃と、京を結ぶ通路になっていましたので、ここを敵に奪われるわけにはいかず、このために有能な武将たちを配置したのです。
光秀がその一員に選ばれたことで、信長から武将としての能力を高く評価されていたことがうかがえます。
延暦寺の攻撃計画を知らされる
信長は延暦寺との交渉が決裂すると、武将たちに延暦寺を攻撃することを通達しました。
延暦寺は最澄以来、数百年の伝統があり、朝廷から崇拝されてきた寺院ですので、宗教的に大きな権威を備えています。
なので、伝統を重視する光秀はこれに反対した、と言われていたのですが、実際にはそうではなかったようです。
攻撃計画を知らされた光秀は、琵琶湖の西部に勢力を持つ、土豪の和田氏や八木氏に、織田軍に参加するようにと呼びかけました。
この時、光秀は和田氏に送った書状の中に「仰木のことは是非とも、なでぎりに仕るべく候」と記しています。
「仰木」とは、延暦寺を攻撃する際に、戦場になると想定された地名です。
そして「なでぎり」とは「皆殺しにする」という意味でした。
つまり光秀は、ともに延暦寺の攻撃に参加し、敵を皆殺しにして手柄を立てよう、と呼びかけていたのです。
これによって、光秀が延暦寺の攻撃に、積極的に参加する意欲を持っていたことがわかります。
延暦寺に最も近い場所に拠点を与えられていただけに、信長からも、大いに働くことを期待されていたのだと思われます。
延暦寺の攻撃
1571年の9月12日に、延暦寺への攻撃は実施されました。
この時、光秀は軍勢を率い、仰木谷から延暦寺にまで侵攻しています。
光秀がどの程度戦い、功績を立てたのかについての記録はないのですが、この時の様子について『信長公記』には、次のように記されています。
「九月十二日、比叡山を攻撃し、根本中堂、日吉大社をはじめ、仏堂、神社、僧坊、経蔵、一棟も残さず、一挙に焼き払った。煙は雲霞の湧き上がるごとく、無惨にも一山がことごとく灰燼と化した。
山下の老若男女は右往左往して逃げまどい、取るものも取りあえず、みな裸足のままで八王寺山に逃げ上り、日吉大社の奥宮に逃げ込んだ。諸隊の兵は、四方から鬨の声を上げて攻め上った。僧、俗、児童、学僧、上人、すべての首を斬り、信長の検分に供して、これは叡山を代表する高僧であるとか、貴僧である、学識高い僧である、などと言上した。
そのほか美女や小童、数も知れぬほど捕縛し、信長の前に引き出した。悪僧はいうまでもなく、「私どもはお助けください」と口々に哀願する者たちも決して許さず、一人残らず首を打ち落とした。あわれにも数千の死体がごろごろところがり、目も当てられぬ有様だった。
信長は年来の鬱憤を晴らすことができた。そして滋賀郡を明智光秀に与え、明智は坂本に城を構えた」
『現代語訳 信長公記(新人物文庫)』より引用
このようにして、信長は光秀が書状に記していた通り、なでぎりを実行に移したのでした。
これにより、光秀の書状に書かれていたことは、ただのかけ声ではなく、戦場で実際に行われていたことがわかります。
そして延暦寺を滅ぼした後、光秀が滋賀郡を与えられ、坂本城を新築し、その主にもなったことから、この戦いにおいて、光秀の働きが大きかったことがうかがえます。
このようにして、光秀は比叡山の焼き討ちをきっかけとして、信長の元で大きな実力を備えるに至ったのでした。
光秀は保守的な性格ではなく、信長と同じように、伝統や権威を踏み破ることを、厭わない性格だったのです。
また、兵士だけでなく、僧や民衆を殺害することも気にしなかったのでした。
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