加藤光泰、おおいに怒り清正の命を救う – 文禄の役の逸話より

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「豊臣秀吉に仕えていた加藤」と言えば清正が有名ですが、もうひとり、加藤光泰みつやすという武将もいました。

光泰は豊臣政権下において、甲斐(かい)(山梨県)24万石の大名で、肥後(ひご)(熊本県)25万石の清正と、ほぼ同等の立場にありました。

1537年の生まれで、1562年生まれの清正より25才も年上だったことになります。

美濃に生まれ、秀吉に仕える

光泰は元々、美濃(みの)(岐阜県)を支配していた斉藤龍興(たつおき)の家臣で、その頃から勇将として知られていました。

敵対していた織田信長からもその武勇を認められていたほどで、衰退していく斉藤氏の中では目立った存在でした。

このために斉藤氏が滅亡した後、秀吉の仲介によって、光泰は信長に拝謁することが許されます。

そして信長から秀吉の家臣となるように命じられ、仕え始めました。

秀吉はこの頃から急速に出世を遂げていきましたが、そのために家臣が不足しており、竹中半兵衛など、斉藤氏の旧臣の取り込みを進めていたのです。

それが光泰にとって幸運の始まりとなり、やがて大名にまで出世するきっかけとなりました。

その後、秀吉と明智光秀との決戦となった「山崎の戦い」では、光秀が率いる本隊を強襲し、明智軍が総崩れとなるきっかけを作っています。

それ以外にも光泰は「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」や「小牧・長久手(ながくて)の戦い」など、秀吉の重要な戦いに参加して武功を立てました。

いわば光泰は歴戦の古強者(ふるつわもの)、といった形容がふさわしい武将だったのです。

加藤光泰

【加藤光泰の肖像画】

文禄の役で戦いをともにする

やがて秀吉は天下人になると、1591年から(みん)(中国の王朝)の支配をもくろみ、そのための通路となる朝鮮半島に攻め込みました。

これは当時の年号から「文禄(ぶんろく)の役」と呼ばれています。

この時に光泰は54才になっていましたが、自ら願い出て朝鮮に出陣しました。

既に甲斐の大名としての地位を確立し、領国経営にも優れた手腕を見せていましたが、あくまでその身を戦場に置きたい、という気持ちが強かったようです。

この時に遠征軍の先鋒を務めたのが加藤清正で、光泰は清正と同じ軍団に所属して戦いました。

この遠征は、序盤は日本側が優勢で、開戦からわずか一ヶ月ほどで、朝鮮の首都である漢城を攻め落としてしまうほどでした。

しかし、やがて明の大軍が参戦し、各地で民衆の抵抗運動が始まったことから、日本軍の快進撃は終わり、苦戦を強いられるようになっていきます。

そして明軍に食料庫を焼き払われたことで、光泰たちは深刻な危機に陥りました。

清正を置き捨てる話が持ち上がる

この時に清正は軍団が駐屯していた都城を離れ、数日ほど先行して進軍し、敵軍と対峙しようとしていました。

しかし、諸将は食糧が尽きかけていましたので、軍議の席で「一刻も早く撤退しよう」と提案するようになります。

これに光泰は憤ります。

「いま、清正が都城を離れて敵に向かっている。そなたらが都城を去って食を得ようとすれば、清正を敵中に置き去りにし、見捨てることになる。そうなれば清正は討ち死にするであろう。それを知りながらここを去る者ような臆病者とは、もはや男子として交わることはできぬ!」と強硬に主張し、撤退を押しとどめようとしました。

そして「清正を見捨てるのは日本の恥だ!」とまで言い放ちます。

これに対し、諸将は「気持ちはわかりますが、食糧は既に尽きてしまいました。どうにもなりませぬ」と反論します。

すると光泰は激しく怒り、「ならば砂でも食らうがよい!」と言うと、諸将は「砂など食べられはしませんぞ」と不満げに言い返します。

これを聞いた光泰は傲然と胸を反り返らせ、「そなたらは砂を食う方法を知らぬと言うか。ならばわしが教えてやろう!」と言い、諸将を罵り始めました。

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