加藤光泰、おおいに怒り清正の命を救う – 文禄の役の逸話より

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光泰、諸将をおおいに罵る

まず側にいた福島正則をきっ、とにらみ、「市松(いちまつ)よ、そちはいつの間にそれほどに大きくなりおった!」と言葉を浴びせます。

「市松」は正則の子どもの頃の名前です。

正則は秀吉の妻・ねねに養育されており、秀吉に長く仕えて来た光泰は、その頃のことをよく知っていました。

清正も正則と同じく、ねねの元で育てられており、二人は親しい関係にありました。
ですので光泰は正則に対し、「幼い頃からの友を見捨てるつもりか、この小童(こわっぱ)が!」と叱りつけたのでした。

そして軍団の総大将である宇喜多秀家に対しては「今までは中納言(ちゅうなごん)殿、と呼んで敬い申して来たが、それもこれまで。今日からは中納言め! と呼ぶことにするわ!」と言い放ちます。

宇喜多秀家は若年でしたが、75万石の大大名でした。そして中納言は上級の官職であり、遠江守(とおとうみのかみ)である光泰よりも、だいぶ上の立場です。

しかし宇喜多秀家も福島正則も、光泰からすれば子どものような相手ですので、暴言を放っても、これに真っ向から反撃できる者はいませんでした。

場が光泰に圧倒されて静まりかえると、光泰は「清正を捨て殺しにし、恥を異国に晒す者どもめ!」と言い捨てて軍議の席を立ちます。

こうして光泰が暴れたことで、数日の間、撤退が引き延ばされます。

その間に、やがて清正も食糧が尽き、都城から三里(12km)離れたところまで撤退して来ている、との報告が届きます。

これを受けて清正の元に伝令が送られ、急ぎ合流して無事に撤退することができたのでした。

諸将は何とか事が収まって、ほっとしたことでしょう。

やがて軍議の席での話を聞いた清正は光泰に感謝し、生死をともにすることを誓いあった、ということです。

加藤清正

【加藤清正の肖像画】

その後の加藤家

光泰は老齢を押して朝鮮で戦っていましたが、やがて体調を崩してしまい、1593年に56才で客死しています。

軍議の様子に見られるように、光泰は不義を許さない硬骨な人物でしたので、疎まれて暗殺されたのだ、という噂も立ちました。

後継者の貞泰(さだやす)はまだ13才と幼かったため、甲斐一国を支配し続ける実力はないと秀吉に判断され、美濃の黒野4万石に減封されました。

甲斐は関東の徳川家康を監視するための重要な拠点でしたので、少年では荷が重い任務だったのです。

これは東北の監視役である蒲生(がもう)家でも同じ措置がとられていることから、光泰の家が特に不遇だったわけではありません。

秀吉は武将個人の実力にふわしい規模の領地を与えて働かせる、という方針をとっており、単純な世襲制を採用していなかったのです。

その後、貞泰は「関ヶ原の戦い」で徳川家康に味方して家名を保ち、後に伊予(いよ)(愛媛県)大洲(おおず)6万石の藩主となりました。

清正の加藤家は改易されてしまいましたが、こちらはその後も長く続き、明治維新の際には勤王派として活動し、「鳥羽・伏見の戦い」にも参戦しています。

地味ながらも、何かと歴史の重要な局面に関わる家柄であったようです。

この功績のため、加藤家の当主・泰秋(やすあき)は維新後に子爵の地位を与えられて華族に列し、子孫は明治から昭和にかけて、貴族としての地位を保ちました。

なお、余談ですが、幕末に大洲藩は小藩ながら「いろは丸」という蒸気船を所有していました。

この船を海援隊を運営する坂本龍馬に貸与したことで、その船名がよく知られることになっています。