豊臣秀吉は織田信長に取り立てられ、小者(雑用係)から身を起こし、最後は天下人にまで上りつめました。
日本の歴史を通じても一代でこれほどの出世を遂げた人物はおらず、その存在は際立っています。
長く続いた戦国時代を終結させ、日本史に大きな足跡を残しましたが、築いた政権を安定させることはできず、豊臣氏はわずか2代で滅んでいます。
この文章ではそんな豊臣秀吉の、壮大な夢のような生涯について書いてみます。
【豊臣秀吉の肖像画】
尾張に生まれる
秀吉は1537年に尾張(愛知県)の中村で生まれました。
父の木下弥右衛門は足軽(雑兵)だったとも、農民だったとも言われています。
出身の身分がはっきりとしていないのですが、それゆえに、いずれにせよ低い階層の出であったと見られています。
秀吉は関白となった後、自分は天皇の血を引いている、という作り話を広めて糊塗しており、出生の真実は不明なままとなっています。
通説によると、父は秀吉が幼い頃に亡くなり、母のなかは竹阿弥と再婚しました。
秀吉はこの竹阿弥との折り合いが悪く、15才の時に家を出ています。
そして行商などをして日銭を稼ぎつつ、各地を放浪をしていたと言われています。
遠江の松下之綱(ゆきつな)に仕える
しばし放浪の末、秀吉は遠江(静岡県西部)の小領主・松下之綱に仕えています。
松下之綱は今川義元の家臣・飯尾連竜(つらたつ)のそのまた家臣で、今川義元から見ると陪臣という立場になります。
秀吉はさらにその家臣(陪々臣)であり、今川義元と直接関わりを持つような身分ではありませんでした。
現代で言えば、子会社の、そのまた子会社の社員、というような立場です。
この時に秀吉は「木下藤吉郎」と名のっています。
才覚に優れた秀吉は、仕事をうまくやりこなして松下之綱に目をかけられましたが、そのために同僚たちに妬まれ、やがて嫌がらせを受けるようになったために退転しています。
この時期に秀吉は結婚をしていたという話もありますが、妻に嫌われてその関係は長続きしなかったようで、いずれにしても冴えない日々を送っていたようです。
後に出世した秀吉は、かつての主だった松下之綱を大名の身分に取り立てています。
秀吉に目をかけた松下之綱も、まさかそのような形で恩が返ってくるとは予想していなかったでしょう。
織田信長に仕える
秀吉は松下之綱の元を去った後、故郷の尾張に戻ると、1554年に領主の織田信長に仕官しました。
この時の身分は小者(こもの)というもので、信長の身辺の雑用をこなす役目でした。
それまでは何かと苦難に見舞われる人生を送っていましたが、信長との出会いが秀吉の人生を大きく変えていくことになります。
ある冬の日、秀吉は信長がはき物を求めている際に、懐に入れて温めておいた草履を差し出し、信長を喜ばせました。
そういった気配りが信長に認められたようで、やがて小者の長に任じられ、清州城の普請奉行(建築の責任者)になるなど、順調に出世を遂げていきます。
どうして普請奉行に任じられたかというと、自ら仕事を任せてもらえるように志願し、それをうまくやりこなしたからです。
ある時災害によって、清州城の城壁が一部破損していました。
しかしなかなか修復工事がはかどらず、城の防衛機能が失われた状態が続いたことで、信長が苛立ち始めます。
それを見た秀吉が、自分にやらせてみてほしいと信長に申し入れました。
そして信長に仕事を任されると大工たちをいくつかの組に分け、より早く工事を仕上げた組から順番に、より多くの報奨金を出すと約束をします。
すると大工たちは熱心に仕事に励むようになり、短期間で工事を完了させることができました。
この功績によって秀吉は普請奉行に任じられ、内政面で信長に用いられるようになっったのです。
信長からすれば、秀吉は意外な拾い物だったことになります。
秀吉にとっては、信長は元の身分にこだわらず、才覚があれば仕事を任せてくれるありがたい主君だったことになります。
このように、両者の相性は抜群のものであったと言えます。
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