豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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関白への就任と秀勝の死

秀吉は小牧・長久手の戦いの終盤のころから、官位を大きく上昇させはじめています。

1584年の10月に従五位下・左近衛権少将になったかと思うと、11月には従三位・権大納言という高位の官職についています。

これは公卿(くぎょう)と呼ばれる、公家の中でも高位の家柄の者たちの仲間入りをしたことになります。

このようにして官位を上昇させ、主家の織田家の官位を上回ることで、自身の天下人としての権威の確立を図ったのです。

朝廷での序列が逆転してしまえば、織田家に遠慮する必要がなくなる、という政治的な意図がありました。

そして1585年3月には正二位・内大臣になり、7月にはついに天皇の代理として政務を行う、関白の地位にまでついてしまいます。

こうして秀吉は並ぶ者のいない権威を手に入れ、天下人としての地位を確立します。

一方で、後継者である秀勝の官位も高めており、こちらも7月には正三位・権中納言にまで昇進させました。

しかし秀勝はこの数年前から病を抱えるようになっており、この年の12月にはそれが悪化して死去してしまいます。

こうして秀吉は、後継者にするべく迎えた信長の養子を失ってしまうことになりました。

信長の血を引くものに自身の築く政権を継承させられなくなったわけで、ここに至って秀吉の構想は、変更の必要に迫られました。

秀吉はこの時には実子がおらず、信長の子と自分の血縁者と、どちらを後継者にすることを望んでいたのか、その心情はなかなか微妙なものがあったと思われます。

越中の征伐

関白に就任した翌月には、越中で抵抗を続けていた佐々成政を討伐し、これを降伏させています。

成政には越中4郡のうち1郡だけを安堵し、こちらも傘下に加えています。

佐々成政はかつては秀吉よりも身分が上で、気位が高いこともあって、成り上がった秀吉を嫌っていました。

秀吉はその成政をも降伏させて従わせたことにより、降伏さえすれば許してある程度の身分も保証すると、天下に喧伝したことになります。

秀吉はなるべく早く天下の統一を仕上げようと考えており、そのためには敵であった者でも許して取り込んだ方が早いと考えていました。

秀吉は海外進出を行い、広大な領地を獲得しようとする大きな野心を抱いており、日本の統一はそのための手段でしかないと思っていたようです。

秀吉は越中の残る3郡を前田利家の嫡子である利長に与え、前田家を90万石を領有する大大名の地位にまで引き上げています。

秀吉は長年の友人で、律儀な性格で信頼のおける利家を、政権の柱石を担う存在として扱おうと企図していました。

これが利家の身分の上昇につながり、後に「加賀百万石」と呼ばれる広大な領地が形成されていく要因となります。

こうして秀吉は家康に味方した勢力を降して傘下に収め、家康を孤立させることに成功しました。

豊臣秀吉となる

秀吉はすでに関白に就任していましたが、これは本来限られた家柄の人間しかつけない地位であり、秀吉には実力はともかく、家格が不足しているという問題がありました。

このため、朝廷は秀吉に新たに「豊臣」という姓を与えることで、その不足を補っています。

こうして1586年9月に「豊臣秀吉」が誕生しました。

さらに12月には最高位の官職である太政大臣にも任じられ、公卿としての頂点にも立っています。

こうして武家を実力で、公家を官位で従わせることにより、日本を支配する豊臣政権の樹立に成功しました。

そして秀吉は太政大臣・関白の名をもって惣無事令(そうぶじれい)という、各地での私的な武力闘争を禁じる命令を出し、これを大義名分として抵抗を続ける地方勢力の討伐を続行していきます。

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